。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。
『好い月ですわねえ!』
智恵子は猶去り難気《がたげ》に恁《か》う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ帰つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲んで、遠く見送つてゐた。
智恵子は痛む腹に力を入れて、堅く歯を喰絞りながら、幾回《いくたび》か背後《うしろ》を振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらモウ人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々|樺火《かばび》の趾《あと》が黒く残つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。
天心の月は、智恵子の影を短く地《つち》に印《しる》した。太鼓の響と何十人の唄声とは、その月までも届くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞楽の場《には》から唯一人帰る智恵子は、急に己《おの》が宿が可厭《いや》になつた。
と言つて、足は矢張宿の方へ動く。送つて来てくれぬ男を怨めしくも思つた。アノ人が東京へ帰ると、屹度今夜のことを[#「今夜のことを」は底本では「今夜ののことを」]手紙に書いて寄越すだらうとも思つた。そして、二人間に取交された約束が、唯一生忘れまいといふ事だけなのを思つて、智恵子は今夜といふ今夜、初めて切実に、それだけでは物足らぬことを感じた。智恵子も女である。力強き男の腕に抱《いだ》かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!
二町|許《ばか》り来ると、智恵子は俄かに足を早めた。不図、怺《こら》へきれぬ程に便気を催して来たので。
(十一)の六
程なくして吉野や静子等も帰路《かへりぢ》に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智恵子の病気の気に懸らぬではないが、寄つて見る訳にも行かぬ。
それから小一時間も経つた。
富江の宿の裏口が開《あ》いて、月影明るい中へヒヨクリと信吾が出た。続いて富江も出た。
『好《い》い月!』
恁う富江が言つた。信吾は自《みづか》ら嘲る様な笑ひを浮べて、些《ちよつ》と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと軽く笑つた。
太鼓の響と唄の声が聞える、四辺《あたり》は森として、何処やらで馬の強く立髪を振る音。
『一寸、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に済まさなくたつて可いわよ。』
『疲れた!』と、信吾は低く呟く様に言つた。
『マ酷い! 散々人を虐めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左様なら!』
『一寸々々《ちよいとちよいと》、真箇《ほんと》よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は再《また》妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家《うち》へ入つた。
人なき裏路を自棄《やけ》に急ぎながら、信吾は浅猿《あさま》しき自嘲の念を制することが出来なかつた。少許《すこし》下向いた其顔は不愉快に堪へぬと言つた様に曇つた。
『莫迦!』
と声を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
信吾の心が生れてから今日一日ほど動揺した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智恵子を訪《と》ふと、初めは盛んに気焔を吐いた。現代の学者を糞味噌に罵倒し尽し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]話の機会《きつかけ》からか、智恵子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤《じつ》と俯向いてゐた。
最後に信吾は言つた。
『智恵子さん、貴女は哀れな僕の述懐を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智恵子さん!』と、情が迫つたといふ様に声を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智恵子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可いと許して頂けば可いんです。それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……』
『小川|様《さん》!』と、女は佶《きつ》と顔をあげた。其顔は眉毛一本動かなかつた。『私の様なもののことを然う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『ハ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない様にお願ひします。』
信吾は眤と腕を組んだ。
『失礼な事を申す様ですが……』
『ウヽ……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、サモ落胆《がつかり》した様に言つて、『然しです、何か理由が、然《さ》う被仰《おつしや》るからには有らうぢやありませんか? それを話して頂く訳にいかないんですか?』
『…………』
『智恵子さん! 僕がこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお断りになるとは余りです。余りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『
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