と俯向いた儘で、
『私今日、アノ、困つた事を致しました!』
『……何です、困つた事ツて?』
 智恵子は不図顔を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。
『アノ、私小川様を憤《おこ》らして帰してよ。』
『小川を※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 怎《ど》うしたんです?』
『そして、瞭然《きつぱり》言つて了ひましたの。……貴方には甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に御迷惑だらうと思つて、後で私……』
『解りました、智恵子様!』
 恁《か》う言つて、吉野は強く女の手を握つた。
『然《さ》うでしたか!』と、ガツシリした肩を落す。
 智恵子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚《からつぽ》になつた様でフラ/\とする。で、男の手を放して人々の後《うしろ》に蹲《しやが》んだ。
 目の前には真黒な幾本の足、彼方《かなた》の篝火がその間から見える。――智恵子は深い谷底に一人落ちた様な気がした。涙が溢れた。
『アラ、先刻《さつき》から被来《いらし》つて?』と背後《うしろ》に静子の声。
 吉野の足は一二尺動いた。
『今来た許りです。』
『然うですか! 兄は怎《ど》うしたんでせう、今方々探したんですけれど。』
『学校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。
『オヤ、日向|様《さん》は?』と、静子は周囲を見廻す。
 智恵子は立ち上つた。
『此処にゐらしつたわ!』
『立つてると何だかフラ/\して、私蹲んでゐましたの、先刻《さつき》から。』
『然う! まだお悪いんぢやなくつて。』と静子は思遣深い調子で言つた。そして(悪いところをお誘ひしたわねえ)(家へ帰つてお寝みなすつては?)と、同時に胸に浮んだ二つの言葉は、何を憚《はばか》つてか言はずに了つた。
『何処かお悪くつて?』と、清子は医師の妻。
『否《いいえ》、少許《すこし》……モ少し見たら私帰りますわ。』

     (十一)の五

 さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て来た。その度、吉野に来て一杯《ひとつ》飲めと加藤の言伝《ことづて》を伝へた。
 信吾は来ない。
 月は高く上つた。其処此処の部落から集つて来て、太鼓は十二三挺に増えた。笛も三人|許《ばか》り加はつた。踊の輪は長く/\街路《みち》なりに楕円形になつて、その人数は二百人近くもあらう。男女、事々しく装つたのもあれば、平常服《ふだんぎ》に白手拭の頬冠《ほほかむり》をしたのもある。十歳《とを》位の小供から、酔の紛れの腰の曲つた老婆様《おばあさん》に至るまで、夜の更け手足の疲れるも知らで踊る。人垣を作つた見物は何時しか少くなつた。――何れも皆踊の輪に加つたので――二箇所《ふたところ》の篝火《かがり》は赤々と燃えに燃える。
 月は高く上つた。
 強い太鼓の響き、調子揃つた足擦《あしずれ》の音、華やかな、古風な、老も若きも恋の歌を歌つてゐる此|境地《さかひ》から、不図目を上げて其静かな月を仰いだ心境《ここち》は、何人も生涯に幾度《いくたび》となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に酔はうとするところであらう。――殊にも此夜の智恵子は、思ふ人と共にゐる楽しみと、体内《みうち》の病苦《くるしみ》と、唆る様な素朴な烈しい恋の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が乱れて、その沈んで行く気持を強い太鼓の響に掻乱される様に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰《ひそ》めては、眤と月を仰いでゐた。
 怒りと嘲笑《あざけり》を浮べた信吾の顔が、時々胸に浮んだ。智恵子は、今日その信吾の厚かましくも言出でた恋を、小気味よく拒絶《ことわ》つて了つたのだ。
 立つたり蹲んだりしてる間《うち》に、何がなしに腹部《はら》が脹つて来て、一二度軽く嘔吐を催すやうな気分にもなつた。早く帰つて寝よう、と幾度《いくたび》か思つた。が、この歓楽の境地《さかひ》に――否、静子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張快くなかつた。居たとて別に話――智恵子は今日の出来事を詳しく話したかつた――をする機会もないが、矢張一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。
 軈《やが》て、下腹部《したはら》の底が少し宛《づつ》痺れる様に痛み出した。それが段々烈しくなつて来る。
 隙《すき》を見て、智恵子は思ひ切つてツト男の傍《そば》へ寄つた。
『私、お先に帰ります。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に悪くなりましたか?』
『少許《すこし》……少許ですけれどもお腹がまた痛んでくる様ですから。』
『可《い》けませんねえ! 怎うです加藤|様《さん》に被行《いらし》つたら?』
『否《いいえ》、ホンの少許《すこし》ですから……アノ、明日でも被来《いらし》つて下さいませんか? 何卒《どうぞ》。』
『行きます、是非
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