其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》らです、』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇《かたき》の前にでも出た様に言つた。其眼は物凄く輝いた。『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智恵子さん、怎《ど》うでせう、聞かして下さいますか?』
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳した。『話は全然《まるで》別の事です。僕は僕の一切を犠牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
 智恵子は胸を刺されたやうにビクリとした。然し一|寸《すん》も動かなかつた。顔色も変へなかつた。
『怎うです、』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを、享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての真心からお二人の為に祝ひます。怎うです、享けて下さいますか?』
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
 智恵子の顔はクワツと許り紅くなつた。そして、
『有難う御座います。』
と、明瞭《はつきり》言放つた。

     (十一)の七

 智恵子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何か知ら弱い者を虐めてやつた時の様な思ひに乱れてゐた。恁《か》うなると彼は、今日自分の遣つた事は、予《あらか》じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌《はま》つて智恵子に自白さしたかの様に考へる。我と我を軽蔑《さげす》まうとする心を、強ひて其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》風に考へて抑へて見た。
 信吾は、成べく平静な態度《ふり》をして、その足で直ぐ加藤医院を訪ね、学校を訪ねた。彼は夕方までに帰つて、吉野や妹共と一緒に踊見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
 其時の信吾は、平常《ふだん》よりも余程《よつぽど》機嫌が可い様に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる様な気がして来て、心にも無い事を一口言へば一口言ふだけ、胸が苛立つて来る。高い笑声《わらひごゑ》を残して、彼は遂に学校から飛び出した。
 モウ日暮近い頃であつた。
 自嘲の念は烈しく頭脳《あたま》を乱した。何故《なぜ》那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》事《こと》を言つたらう? 莫迦な、モウ智恵子の顔を見ることが出来なくなつた! と彼は悔いた。何故モツと早く――吉野の来ないうちに言はなかつたらう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
『畜生奴《ちくしやうめ》! 到頭白状させてやつた。』恁う彼は口に出して言つて見た。が、矢張彼は女から享けた拒絶の恥辱《はぢ》を、全く打消すことが出来なかつた。よし、彼女《あのをんな》を免職させる様にしてやらうか! 否《いや》、それよりは何《ど》うかして吉野を追払はう!
 彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋《ふなたばし》まで、国道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら帰るともなく帰つて来た。が、彼は人に顔を見られたくない。町端れから再《また》引返して、今度は旧国道を門前寺村の方へ辿つた。
 月が上つた。
 途断《とぎれ》々々に、町へ来る近村の男女に会つた。彼は然しそれに気がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思出してゐた。
「何有《なあに》! 知らん顔をしてゐればそれで済む。豈且《まさか》智恵子が言ひは為まい。」と彼は少し落着いて来た。
「然し、」と彼は復《また》しても吉野が憎くなる。「アノ野郎|奴《め》、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがつた!」
 信吾の憤《いか》りは再《また》発した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思出して、遂に、頭髪《かみ》を掻※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かきむし》りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステツキを強く揮つて、自暴《やけ》にヒユウと空気を切つた。
『信吾|様《さん》!』
と女の声。彼は驚いた様に顔を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近いて来る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾|様《さん》!』と富江は再《また》呼んだ。
『あ、神山|様《さん》でしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『マア、何処へ被行《いらつしや》るの?』
 答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴《やけ》に体を向直した。
『ハハヽヽ。何処へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家《うち》へ招待《よば》れて、門前寺の…………一人で散歩するなんて気が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
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