の宝徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。静子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や小供らと共に、午前のうちに参詣に出た。
 その帰路《かへり》である。静子は小妹《いもうと》二人を伴れて、宝徳寺路の入口の智恵子の宿を訪ねた。智恵子は、何か気の退《ひ》ける様子で迎へる。
『怎うなすつたの、智恵子さん? 風邪《おかぜ》でもお引きなすつて?』
『否《いいえ》、今日は何とも無いんですけれど、昨晩恰度お腹が少し変だつた所でしたから……折角お使者《つかひ》を下すつたのに、済みませんでしたわねえ。』
『心配したわ、私。』と、静子は真面目に言つた。『貴女が被来《いらつしや》らないもんだから、詰らなかつたの加留多は。』
『アラ其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は有りませんわ。大勢|被行《いらし》つたでせう、神山|様《さん》も?』
『けどもねえ智恵子様、怎うしたんだか些《ちつ》とも気が逸《はず》まなかつてよ。騒いだのは富江さん許り……可厭《いやあ》ねアノ人は!』
『……那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》人だと思つてれヤ可《い》いわ。』
 静子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない様な気がして、止めて了つた。三十分許り経つて暇乞をした。
 二人は相談した様に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。
 静子が家《うち》へ帰ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる様な打切棒《ぶつきらぼう》な語調《てうし》で、智恵子の事を訊いた。
 静子は有《あり》の儘に答へた。
『然うか!』
と言つた信吾の態度《やうす》は、宛然《さながら》、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は聞いても聞かなくても可いと言つた様であつたが、静子は征矢《そや》の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、
『兄様《にいさん》に宜敷と言つてよ、智恵子|様《さん》が!』
と言つて見た。智恵子は何とも言つたのではないが。
『然うか!』と、信吾は再《また》卒気《そつけ》なく答へた。
 そして、昼飯が済むと、フラリと一人出て、町へ行つた。
 信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて来た盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人《としより》を伴れて来た。叔母は墓参の為と披露した。連の男は松原家から頼まれて来たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく静子の縁談の事で。
 父の信之、祖父の勘解由《かげゆ》、母お柳、その三人と松原家の使者《つかひ》とは奥の間で話してゐる。叔母も其席に出た。静子は今更の様に胸が騒ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしないかと思ふと、その吉野にも顔を見せたくなかつた。
 室《へや》に籠つたり、台所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかかつた。信吾はそれでも帰つて来ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。
 晩餐の時、媒介者《なかうど》が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全然《すつかり》暗くなつても帰らぬ。母お柳の勧めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、静子は吉野と共に小妹《いもうと》達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。

     (十一)の二

 恰度《ちやうど》鶴飼橋へ差掛つた時、円い十四日の月がユラ/\と姫神山の上に昇つた。空は雲|一片《ひとつ》なく穏かに晴渡つて、紫深く黝《くろず》んだ岩手山が、歴然《くつきり》と夕照《せきせう》の名残の中に浮んでゐる。
 仄《ほんの》りと暗い中空《なかぞら》には、弱々しい星影が七つ八つ、青びれて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはモウ太鼓の響が聞え出した。
 たとへ何を言つたとて小妹《いもうと》共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ静子の心は、言ふ許りなく動悸《ときめ》いてゐた。家には媒介者《なかうど》が来てゐる。松原との縁談は静子の絶対に好まぬ所だ。その話の発落《なりゆき》が恁《か》うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、静子は種々《いろいろ》の思ひを胸に畳んだ。
『若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否《いな》、若し此人が現在自分の夫であつたら!』
 月明かに静かな四辺《あたり》の景色と、遠き太鼓の響とは、静子の此|心境《ここち》に適合《ふさは》しかつた。静子は小妹《いもうと》共の罪なき言葉に吉野と声を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出来なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、静子は此夜の心境《ここち》を
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