せて、『マア小説みたいなもんでサ。』
『みたいなナンテ……確乎《しつかり》教へたつて好いぢやありませんか? 私は読めるんぢやなし……。』
『それが読めたら面白いですよ。』と、信吾はニヤ/\笑つてゐる。
『日向|様《さん》の真似をして私も英語をやりませうか?』と言つて、富江は皮肉に笑つてる眼で男を仰いだ。
そして直ぐ何か思出した様に声を落して、『然う/\、信吾さん、面白い話がありますよ。』
『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》?』
『マアお顔を洗つてらつしやいな。』
(十)の三
顔を洗つて来た信吾は、気も爽々《さつぱり》した様《やう》で、ニヤ/\笑ひながら座についた。
『アラ、貴方のお髯は洗つても落ちませんね。』
『戯談《じやうだん》ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』
『詰らない事ですよ。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に自重《もた》せなくても可いぢやないですか?』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に聞きたいんですか?』
『貴女が言ひ出して置いた癖に。』
『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』
『聞いて上げませう。』
『アノネ……』と、富江は探る様な目付をして、笑ひ乍ら真面《まとも》に信吾を見てゐる。
信吾は、其話が屹度《きつと》智恵子の事だと察してゐる。で、恁《か》う此女に顔を見られると、擽られる様な、かつがれてる様な気がして、妙に紛《まぎ》らかす機会《はづみ》がなくなつた。
『何です!』
と少し苛々した語調《てうし》。
『ホホヽヽ。』と富江は再《また》笑つた。『或人がね。』
『或人ツて誰?』
『マア。』
『可《よ》し/\。その或人が怎《ど》うしたんです?』
『アノ方をね。』と離室《はなれ》の方を頤で指す。
『吉野を。』と信吾の眼尻が緊《しま》つた。
『ホホヽヽ。』
『吉野を怎うしたんです?』
『……ですとサ。ホホヽヽ。』
『豈夫《まさか》! 神山|様《さん》の口にや戸が閉《た》てられない。』
と言つて、何を思つてか膝を揺つて大きく笑つた。
目的《あて》が脱《はづ》れたといふ様に、富江は急に真面目な顔をして、
『真箇《ほんと》ですよ。』
『豈夫《まさか》? 誰が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事言つたんですか?』
『矢張《やつぱり》聞きたいんでせう?』
『聞きたいこともないが、……然し其奴《そいつ》ア珍聞だ。』
『珍聞?』と、また勝誇つた眼付をして、『貴方も余程《よつぽど》頓馬ね!』
『怎うして?』
『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書《ほん》で信吾の膝を突《つつ》く。
『それより神山|様《さん》、誰が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事言つたんですか?』
『確かな所から。』
『然し面白いなア。ハツハハ。真箇だつたら実に面白い。可し/\、一つ吉野に揶揄《からか》つてやらう。』と、一人|態《わざ》と面白さうに言ふ。
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に面白くつて?』
『面白いさ。宛然《まるで》小説だ!』
『然うね。この話は誰より一番信吾|様《さん》に面白いの。ね、然うでせう?』
『それはまた、怎うした訳です?』
『ね、然うでせう? 然うでせう?』
と、男を圧迫《おしつけ》る様に言つて探る様な眼を異様に輝かした。そして、弾機《ばね》でも脱れた様に、
『ホホヽヽ。』と笑つた。
『ハハヽヽ。』と、信吾も為方《しかた》なしに笑つて、『実に詭弁家だな神山|様《さん》は!』
『詭弁家? 怎うせ然うよ、今の話も私が拵へたんだから!』
『否《いや》、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』
其顔を嘲る様に眤と見て、『矢張気に懸るわね、信吾|様《さん》!』
『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の脳《なう》を掠めた。『それより奈何《どう》です、その吉野の方へ行つてみませんか?』
『行きませう。』
信吾はツト立つて縁側に出ると、
『吉野君。』
と大きく呼んだ。
『何だ?』と落着いた返事。
『昼寝してたんぢやないのか! 今神山さんが来たが、其方《そつち》へ行つても可《い》いか?』
『来たまへ。』
『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へる事でも出来た様な顔をして、黙つてその後に跟《つ》いた。縁側伝ひ、蔭《かげ》つた庭の植込に蜩《ひぐらし》が鳴き出した。
(十)の四
今年の春の巴里のサロンの画譜を披《ひら》いて、吉野は
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