とも仲が好い。緩々《ゆるゆる》話をするなんかは大嫌ひで、毎日昌作と共に川にゆく、吉野とも親んだ。――
 常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と静子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出来るだけそれを顔に表さぬ様に努めた。智恵子の名は、三人とも怎《ど》うしたものか可成《なるべく》口に出すことを避けた。
 吉野は医師の加藤と親んで、写生に行くと言つて出ては、重ねて其|家《いへ》を訪ねた。
 智恵子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに来たツ限《きり》。
 暑い/\八月も中旬《なかば》になつた。螢の季節《とき》も過ぎた。明日《あす》は陰暦の盂蘭盆《うらぼん》といふ日、夕方近くなつて、門口から噪《はしや》いだ声を立てながら神山富江が訪ねて来た。


     (十)の二

 富江が来ると、家中《うちぢゆう》が急に賑かになつて、高い笑声が立つ。暑熱《あつさ》盛りをうつら/\と臥《ね》てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で静子に髪を結はしてる様子。その縁側の辺《あたり》から、富江の声が霎時《しばし》聞えてゐたが、何やら鋭く笑ひ捨てて、縁側伝ひに足音が此方《こなた》へ来る。
 信吾も昼寝から覚めた許り、不快な夢でも見た後の様に、妙に燻《くす》んだ顔をして胡坐《あぐら》を掻いてゐた。富江の声や足音は先《さつき》から耳についてゐる。が、心は智恵子のことを考へてゐた。
 或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智恵子を訪ねた。二人の話はモウ以前の様に逸《はづ》まなくなつた。吉野が来てからの智恵子は、何処となく変つた点《ところ》が見える。さればと言つて別に自分を厭《いと》ふ様な様子も見せぬ。
 かの新坊の溺死を救けた以来、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智恵子を訪ねることも、信吾は直ぐに感付いてゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出来た。信吾は苛々《いらいら》した不快な感情に支配されてゐる。
 いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智恵子を思つてるのでもないのだ。高が田舎の女教員だ! といふ軽侮が常に頭脳《あたま》にある。確固《しつかり》した女だとも思ふ。確固した、そして美しい女だけに、信吾は智恵子をして他の男――吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智恵子に思はれる権利でもある様に感じてゐる。『吉野を帰して了ふ工夫はないだらうか!』這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》考へまでも時として信吾を悩ました。
 そして又、静子の吉野に対する素振も、信吾の目に快くはなかつた。総じて年頃の兄が、年頃の妹の男に親まうとするを見るのは、楽いものではない。平生《へいぜい》恋といふものに自由な信条を抱いてる男でも、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》場合には屹度自分の心の矛盾を発見する。
『戸籍上は兎も角、静子はモウ未亡人ぢやないか!』
 信吾の頭脳には恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》皮肉さへも宿つてゐる。これと際立つところはないが、静子が吉野の事といへば何より大事にしてゐる、それが唯癪に障る。理由もなく不愉快に見える――。
『マア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。
『貴女《あなた》でしたか!』
『オヤ、別の人を待つてゐたの!』
『ハツハハ。相不変《あひかはらず》不減口《へらずぐち》を吐《はた》く! 暑いところを能くやつて来ましたね。』
『貴方が昼寝してるだらうから、起して上げようと思つて。』
『屹度《きつと》神山さんが来ると思つたから、恁《か》うしてチヤンと起きて待つてたんですよ。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事|誰方《どなた》から習つて? ホホヽヽ、マア何といふ呆然《ぼんやり》した顔! お顔を洗つて被来《いらつしや》いな。』と言ひ乍ら、遠慮なく座つた。
『適《かな》はない、適はない。それぢや早速仰せに従つて洗つて来るかな。』
『然うなさいな。モウ日が暮れますから。』と言つて、無造作に其処に落ちてゐる小形の本を取る。
 立ち上つた信吾は、
『ア、其奴《そいつ》ア可《い》けない。』と、それを取返さうとする。
 娘らしい、態《さま》をして、富江は素早く其手を避けた。
『何ですの、これ? 小説?』
 黄《きいろ》い本の表紙には、[#ここから横組み]“True《ツルー》 Love《ラヴ》”[#ここで横組み終わり]と書かれた。文科の学生などの間に流行《はやつ》てゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書《ほん》だ。
『ハツハハ。』と信吾は手を引込ま
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