て貸して、智恵子からはルナンの耶蘇伝の翻訳を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智恵子を訪ねた。
信吾は智恵子に対して殊更に尊敬の態度を採つた。時としては、モウ幾年もの親い友達の様な口も利くが、概して二人の間に交換される会話は、這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》田舎では聞かれた事のない高尚な問題で、人生《ライフ》とか信仰とか創作とかいふ語《ことば》が多い。信吾は好んで其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》問題を担ぎ出し、対手に解らぬと知り乍ら六ヶ敷い哲学上の議論までする。心して聞けば、其謂ふ所に、或は一貫した思想も意見も無かつたかも知れぬ。又、其好んで口にする泰西の哲人の名に就いて彼自身の有つてゐる智識も疑問であつたかも知れぬ。それは兎も角、信吾が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事を調子よく喋る時は、血の多い人のする様に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した様子をする。
『僕は不思議ですねえ。恁《か》うして貴女と話してると、何だか自然に真摯《まじめ》になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁《か》う不安があつて、言はうと思ふことも遂《つい》人の前では言へなかつたりする様になつてゐたんですが……実に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否《いや》、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』
と或時信吾は真摯な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。
『僕は不思議ですねえ。恁《か》うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を演《や》りたくなつて来て、遂《つい》心にない事まで言つて了ひます。』
智恵子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の思惑を心配せぬ訳にいかなかつた。狭い村だけに少しの事も意味あり気に囃《はや》し立てるが常である。万一其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事があつては誠に心外の至りであると智恵子は思つた。それで可成《なるべく》寡言《くちすくな》に、隙《すき》のない様に待遇《あしら》つてはゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍
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