『然うでせうねえ!』と大きい眼をパチ/\する。
それから二人は、一時間前に漸々《やうやう》寝入つたといふ老女《としより》の話などをしてゐたが、お利代は立つて行つて、今日函館から来たといふ手紙を持つて来た。そして、
『先生、怎《ど》うしたものでせうねえ?』と、愁し気な、極悪気《きまりわるげ》な顔をして話し出した。
その手紙はお利代の先夫からである。以前《まへ》にも一度来た。返事を出さなかつたので再《また》来た。梅といふ子が生れた翌年《よくとし》不図《ふと》行方知れずなつてからモウ九年になる。その長々の間の詫を細々書いて、そして、自分は今函館の或商会の支店を預る位の身分になつたから、是非共過去の自分の罪を許して、一家を挙げて函館に来てくれと言つて来たのである。そして、自分の家出の後に二度目の夫のあつた事、それが死んだ事も聞知つてゐる。生れた新坊は矢張《やはり》自分の子と思つて育てたいと優くも言葉を添へた。――
身を入れて其話を聞いてゐた智恵子は、謹慎《つつま》しいお利代の口振《くちぶり》の底に、此悲しき女《ひと》の心は今猶その先夫の梅次郎を慕つてゐる事を知つた。そして無理もないと思つた。
無理もないと思ひつゝも、智恵子の心には思ひもかけぬ怪しき陰翳《かげ》がさした。智恵子は心から此哀れなる寡婦《をんな》に同情してゐた。そして自己《おのれ》に出来るだけの補助《たすけ》をする――人を救ふといふことは楽い事だ。今迄お利代を救ふものは自己《おのれ》一人であつた。然し今は然うでない!
誰しも恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》場合に感ずる一種の不満を、智恵子も感ぜずに居《をら》れなかつた。が、すぐにそれを打消した。
『で御座いますからね。』とお利代は言葉をついだ。『マア何方《どつち》にした所で、祖母《おばあ》さんの病気を癒すのが一番で御座いますがね。……何と返事したものかと思ひまして。』
『然《さ》うね。』と云つて、智恵子は睫毛の長い眼を瞬《しばたた》いてゐたが、『忝《かたじけ》ないわ、私なんかに御相談して下すつて。……アノ小母さん、兎も角今のお家の事情を詳しく然《さう》言つて上げた方が可《よ》かなくつて? 被行《いらつしや》る方が可《いい》と、マア私だけは思ふわ。だけど怎《どう》せ今直ぐとはいかないんですから。』
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