31−上−21]乎《ぼうつ》として、淡い月光《つきかげ》と柔かな靄《もや》に包まれて、底もなき甘い夜の静寂《しづけさ》の中に蕩《とろ》けさうになつた静子の心をして、訳もなき突差の同情を起さしめた。
『此《この》女《ひと》は兄に未練を有《も》つてる!』といふ考へが、瞬く後に静子の感情を制した。厭はしき怖れが胸に湧いた。
然しそれも清子に対する同情を全くは消さなかつた。女は悲いものだ! と言ふ様な悲哀《かなしみ》が、静子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎《ど》うです。少し早く歩いては?』
と信吾が呼んだ。二人は驚いて顔を挙げた。
(四)の九
其夜、人々に別れて智恵子が宿に着いた時はモウ十時を過ぎてゐた。
ガタビシする入口の戸を開けると、其処から見透《すとほ》しの台所の炉辺《ろばた》に、薄暗く火屋《ほや》の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈《つりらんぷ》の下《もと》で、物思はし気に悄然《しよんぼり》と坐つて裁縫《しごと》をしてゐたお利代は、
『あ、お帰りで御座いますか。』
と急しく出迎へる。
『遅くなりまして。新坊さんもモウお寝《やす》み?』
『ハ、皆《みんな》寝《やす》みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と、
先に立つて智恵子の室《へや》に入つて、手早く机の上の洋燈を点《とも》す。臥床《とこ》が延べてあつた。
お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智恵子の耳に不愉快に響いた。
今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が拡げたなりに逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《のたく》つてゐた。閃《ちら》とそれを見乍ら智恵子は室に入つて、
『マア臥床《おとこ》まで延べて下すつて、済まなかつたわ、小母《をば》さん。』
『何の、先生。』と笑顔を見せて、『面白う御座んしたでせう?』
『え……。』と少し曖昧に濁して、『私、疲れちやつたわ。』
と邪気《あどけ》なく言ひ乍ら、袴も脱がずに坐る。
『誰方が一番お上手でした?』
『皆様《みなさん》お上手よ。私なんか今迄余り加留多も取つた事がないもんですから、敗けて許《ばつか》り。』と嫣乎《につこり》する。ほつれた髪が頬に乱れてる所為《せゐ》か、其顔が常よりも艶に見えた。
成程智恵子は遊戯《あそび》などに心を打込む様な性格《たち》でないと思つたので、お利代は感心した様に、
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