しかけたが、それを罷《や》めてニヤ/\と薄笑《うすわらひ》を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。
 信吾は心に、怎《ど》ういふ連想からか、かの「恋ざめ」に書《かか》れてある事実《こと》――否《いな》あれを書く時の作者の心持、否、あれを読んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
 五六歩歩くと、智恵子の柔かな手に、男の手の甲が、木《こ》の葉が落ちて触《さは》る程軽く触つた。寒いとも温かいともつかぬ、電光《いなづま》の様な感じが智恵子の脳を掠めて、体が自ら剛《かた》くなつた。二三歩すると又触つた。今度は少し強かつた。
 智恵子は其手を口の辺《あたり》へ持つて来て、軽《かろ》く故意《わざ》とらしからぬ咳をした。そして、礑《はた》と足を留めて背後《うしろ》を振返つた。清子と静子は肩を並べて、二人とも俯向《うつむ》いて十間も彼方《かなた》から来る。
 信吾は五六歩歩いて、思切悪気《おもひきりわるげ》に立留つた。そして矢張《やつぱり》振返つた。目は、淡く月光《つきかげ》を浴びた智恵子の横顔を見てゐる。コツ/\と杖《ステツキ》の尖《さき》で下駄の鼻を叩いた。
 其顔には、自《みづか》ら嘲る様な、或は又、対手を蔑視《みくび》つた様な笑が浮んでゐた。
 清子と静子は、霎時《しばし》は二人が立留つてゐるのも気付かぬ如くであつた。清子は初から物思はし気に俯向《うつむ》いて、そして、物も言はず、出来るだけ足を遅くしようとする。
『済まなかつたわね、清子さん、恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に遅くしちやつて。』
と、モ少し前《さき》に静子が言つた。
『否《いいえ》。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。
『だつて、お宅《うち》ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も慎次さんも被来《いらしつ》たんだから可《いい》けど……。』
『静子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、眤《じつ》と静子の手を握つた。
『恁《か》うして居たいわ、私。……』
『え?』
『恁うして! 何処までも、何処までも恁うして歩いて……。』
 静子は訳もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顔を見合さなかつた。何処までも恁うして歩く! 此美しい夢の様な語《ことば》は華かな加留多の後の、疲れて※[#「目+夢」の「夕」に代えて「目」、2
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