》とも変らないね。』と信吾は短い髯を捻つた、『幸福に暮してると年は老《と》らないよ。』
『さうね。』
 其話はそれ限《ぎり》になつた。
『今日随分長く学校に被居《いらしつ》たわね。貴兄《あなた》智恵子さんに逢つたでせう?』
『智恵子? ウン日向さんか。逢つた。』
『何う思つて、兄様《にいさん》は?』と笑を含む。
『美人だね。』と信吾も笑つた。
『顔許りぢやないわ。』と静子は真面目な目をして、『それや好い方よ心も。私《わたし》姉様の様に思つてるわ。』と言つて、熱心に智恵子の性格の美しく清い事、其一例として、浜野(智恵子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて続けられてゐる事などを話した。
 信吾は其話を、腹では真面目に、表面《うはべ》はニヤ/\笑ひ乍ら聴いてゐた。
 二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の様な夏の日が岩手山の巓《いただき》に落ちて、夕映の空が底もなく黄橙色《だいだいいろ》に霞んだ。と、背《たけ》高い、頭髪《かみのけ》をモヂヤ/\さした、眼鏡をかけた一人の青年が、反対の方から橋の上に現れた。静子は、
『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄に囁く。
『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。
『迎ひに来た。家ぢや待つてるぞ。』
言ふ間もなく踵《くびす》を返して、今来た路を自暴《やけ》に大跨で帰つて行く。信吾は其後姿を見送り乍ら、愍む様な軽蔑した様な笑ひを浮べた。静子は心持眉を顰《ひそ》めて、
『阿母《おつか》さんも酷いわね。迎ひなら昌作さんでなくたつて可いのに!』と独語の様に呟いた。

     (三)の一

 暁方からの雨は午《ひる》少し過ぎに霽《あが》つた。庭は飛石だけ先づ乾いて、子供等の散らかした草花が生々としてゐる。池には鯉が跳ねる。池の彼方《かなた》が芝生の築山、築山の真上に姿優しい姫神山が浮んで空には断《ちぎ》れ/\の白雲が流れた。――それが開放《あけはな》した東向の縁側から見える。地《つち》から発散する水蒸気が風なき空気に籠つて、少し蒸す様な午後の三時頃。
『それで何で御座いますか、えゝ、お食事の方は? 矢張《やつぱり》お進みになりませんですか?』と言ひ乍ら、加藤は少し腰を浮かして、静子が薦める金盥《かなだらひ》の水で真似許り手を洗ふ。今しもお柳の診察――と言つても毎日の事でホンの型許り――が済んだところだ。
『ハア、怎《ど》うも。…………それでゐて恁《か》
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