る事が出来ん。男は結局一人ぼつちよ、死ぬまで。』
とアノ人が言つた!
 翌日《あくるひ》久子と大沢に行つて、昨日午前再び下小路《しもこうぢ》なる久子の家まで帰つた。
『日向|様《さん》は何日お帰りになります?』恁うアノ人が言つた。
『明日《あした》になさいな、ねえ!』と久子が側《かたは》らから言つた、『吉野|様《さん》も然う遊ばせな何卒。』
『否《いや》、僕は今日午後に発ちます。』
 遂に同じ汽車で帰つて、再会を約して好摩が原で別れた。
『それだけだ。』と智恵子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何《ど》れだけなのか解らぬ。
 解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はモウ、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而《さう》して、何処へ? 何処へ?
『ククヽヽクウ。』といふ声は遙《ずつ》と背後《うしろ》に聞えた。智恵子は何時しか雑木の木立を歩み尽きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。
 佶《きつ》と其下の方を見て居たが、何を思つてか、智恵子は急《いそが》しく其急な坂を下《くだ》り初めた。

     (八)の四

 タラ/\と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下《お》り尽すと、其処は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奥に小《ささや》かな柾葺《まさぶき》の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ為に屋根を葺《ふ》いた。町の半数の家々ではこの水で飯《めし》を炊《かし》ぐ。
 蓊欝《こんもり》と木が蔽《かぶさ》つてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の様な水が、其処らの青苔や円《まろ》い石を濡らしてるのとで、如何《いか》な日盛《ひざかり》でも冷《すずし》い風が立つてゐる。智恵子は不図|渇《かつ》を覚えた。まだ午食《ひるめし》に余程間があると見えて、誰一人水汲が来てゐない。
 重い柄杓《ひしやく》に水を溢れさせて、口移しに飲まうとすると、サラリと髪が落つる。髪を被《かづ》いた顔が水に映つた。先刻《さつき》から断間《しきり》なしに熱《ほて》つてるのに、周辺《あたり》の青葉の故か、顔が例《いつも》よりも青く見える。
 智恵子は二口許り飲んだ。歯がキリ/\する位で、心地よい冷《つめた》さが腹の底までも沁み渡つた。と、顔の熱るのが一層感じられる。『怎《ど》して青く見えたか知ら!』と
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