』とライダル湖畔の詩人が謳《うた》つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の声を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、声と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷《さまよ》うてゆく思ひがする。
 声の在所《ありか》を覓《もと》むる如く、キヨロ/\と落着かぬ様に目を働かせて、径もなき木蔭地《こさぢ》の湿りを、智恵子は樹々の間を其方《そなた》に抜け此方《こなた》に潜る。夢見る人の足調《あしどり》とは是であらう。髪は肩に乱れ、胸に波打ち、ハラ/\と顔にも懸る。それを払はうとするでもない。
 故もなく胸が騒いでゐる。酔つた様な、愉《たの》しい様な、切ない様な……宛然《さながら》葉隠の鳥の声の、何か定めなき思ひが、総身の脈を乱してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の声。
「私ほど辛い悲しいものはない!」
 恁《か》う理由のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。ただ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
『吉野さんが町に、加藤の家《うち》に来てゐる。』智恵子に解つてるのは之だけだ。
 初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の挙動《やうす》は、今猶明かに心に残つてゐる。然し言葉を交したのでもない。友の静子は耳の根迄紅くなつてゐた。その静子は又、自分とアノ人が端なくも※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗合せて盛岡に行く時、田圃に出て紛※[#「巾+兌」、255−上−16]《ハンケチ》を振つた。静子の底の底の心が、何故か自分に解つた様な気がする。
『何故|那時《あのとき》、私はアノ人の背後《うしろ》に隠れたらう?』恁う智恵子は自分に問うて見る。我知らず顔が紅くなる。
 其晩、同じ久子の家に泊つた。久子兄妹とアノ人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に嬉《うれ》しんだらう! 久子の兄とアノ人との会話《はなし》が、解らぬ乍らに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に面白かつたらう!
『君は天才なんだ。』恁《か》う久子の兄が幾度《いくたび》か真摯《まじめ》に言つた。何かの話の時、
『矢張《やつぱり》女といふものは全く放たれ
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