の。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるサ。』と頼む様な語調《てうし》。
『肺病患者なんかに!』と独言《ひとりご》つ様に言つて、
『アノね、昌作さん。』と可笑《をか》しさを怺《こら》へた様な眼付をする。『恁《か》う言つて下さいな、山内|様《さん》に。アノね、評釈なんか無くたつて解るぢやありませんかツて。』
『え? 何ですツて?』と昌作は真面目に腑に落ちぬ顔をする。
『ホホヽヽヽ。』と富江は一人高笑ひした。そして、『書《ほん》はね、後刻《あと》で誰かに届けさせますよ。』
 一時間程経つて、昌作は、来た時の様にブラリと、帽子も冠らず、単衣の両袖を肩に捲り上げて、長い体を妙に気取つて、学校の門を出た。
 そして川崎道の曲角まで来た時、三町|彼方《かなた》から、深張の橄欖色《オリイブいろ》の女傘《かさ》をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて来るのに目をつけた。『ハハア、帰つて来たナ。』と呟いて、足を淀《よど》めたが、ツイと横路へ入る。
 三日前に画家の吉野と同じ※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗合せて、大沢温泉に開かれた同級会へ行つた智恵子は、今しも唯一人、町の入口まで帰つて来た。

     (七)の三

 小川家の離室《はなれ》には、画家の吉野と信吾とが相対してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から帰つて来た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏|直衣《ちよつき》の、その鈕《ボタン》まで脱《はづ》して、胡坐《あぐら》をかいた。
 その土産らしい西洋菓子の函を開き、茶を注《つ》いで、静子も其処に坐つた。母屋の方では、キヤツ/\と小妹《いもうと》共の騒ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡辺の噂を続けた。
『僕は中学の画の教師なんかやるのが抑《そもそ》も愚だと言つて遣つたんだ。奴だつて学校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙《ずつ》と常識的な男でね。静物の写生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友《なかま》の間でも色彩《いろ》の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩《なにいろ》を使つても習慣《コンベンシヨン》を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覧会に出した風景と静物なんか、黒人《くろうと》仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴《そいつ》が君、遊びに来た中学生に三宅の水彩画の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否《いや》悲しいといふよりは癪
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