うちに、何處の學校にもない異樣な現象を發見した。それは校長と健との妙な對照で、健は自分より四圓も月給の安い一代用教員に過ぎないが、生徒の服してゐることから言へば、健が校長の樣で、校長の安藤は女教師の自分よりも生徒に侮られてゐた。孝子は師範女子部の寄宿舍を出てから二年とは經たず、一生を教育に獻げようとは思はぬまでも、授業にも讀書にもまだ相應に興味を有つてる頃ではあり、何處か氣性の確固《しつかり》した、判斷力の勝つた女なので、日頃校長の無能が女ながらも齒痒い位。殊にも、その妻のだらしの無いのが見るも厭で、毎日顏を合してゐながら、碌すつぽ口を利かぬことさへ珍しくない。そして孝子には、萬事に生々とした健の烈しい氣性――その氣性の輝いてゐる、笑ふ時は十七八の少年の樣に無邪氣に、眞摯《まじめ》な時は二十六七にも、もつと上にも見える渠の眼、(それを孝子は、寫眞版などで見た奈勃翁《ナポレオン》の眼に肖たと思つてゐた。)――その眼が此學校の精神ででもあるかのやうに見えた。健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と孝子は信じてゐた。そして孝子自身の心も、
前へ
次へ
全40ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング