何時しか健の眼に隨つて動く樣になつてゐる事は、氣が附かずにゐた。
 齡から云へば、孝子は二十三で、健の方が一歳下の弟である。が、健は何かの事情で早く結婚したので、その頃もう小兒も有つた。そして其家が時として其日の糧にも差支へる程貧しい事は、村中知らぬ者もなく、健自身も別段隱す風も見せなかつた。或る日、健は朝から浮かぬ顏をして、十分の休み毎に欠伸《あくび》許りしてゐた。
『奈何なさいましたの、千早先生、今日はお顏色が良くないぢやありませんか?』
と孝子は何かの機會に訊いた。健は出かゝかつた生欠伸を噛んで、
『何有《なあに》。』と言つて笑つた。そして、
『今日は煙草が切れたもんですからね。』
 孝子は何とも言ふことが出來なかつた。健が平生人に魂消られる程の喫煙家で、職員室に入つて來ると、甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事があらうと先づ煙管を取り上げる男であることは、孝子もよく知つてゐた。卓隣りの秋野は其煙草入を出して健に薦めたが、渠は其日一日|喫《の》まぬ積りだつたと見えて、煙管も持つて來てゐなかつた。そして、秋野の煙草を借りて、美味さうに二三服續
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