に、孝子は一寸薄目を與《く》れて、
『それア私の方は……』と言ひ出した時、入口の障子がガラリと開いて、淺黄がかつた縞の古袷に、羽織も着ず、足袋も穿かぬ小造りの男が、セカ/\と入つて來た。
『やア、誰かと思つたば東川さんか。』と、秋野は言つた。
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》に吃驚する事はねえさ。』
然う言ひながら東川は、型の古い黒の中折を書類入の戸棚の上に載せて、
『やアお急しい樣でごあんすな。好いお天氣で。』と、一同に挨拶した。そして、手づから椅子を引き寄せて、遠慮もなく腰を掛け、校長や秋野と二言三言話してゐたが、何やら氣の急ぐ態度であつた。その横顏を健は昵と凝視《みつ》めてゐた。齡は三十四五であるが、頭の頂邊が大分圓く禿げてゐて、左眼《ひだりめ》が潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけてゐる。小形の鼻が尖つて、見るから一癖あり相な、拔け目のない顏立ちである。
『時に。』と、東川は話の斷れ目を待ち構へてゐた樣に、椅子を健の卓に向けた。『千早先生。』
『何です?』
『實は其用で態々來たのだがなす、先生、もう出したすか? 未だすか?』
前へ
次へ
全40ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング