一しきり春の潮の樣に騷いだ。
五分とも經たぬうちに、今度は秋野がその鐘索を引いて、先づ控所へ出て行つた。と、健は校長の前へ行つて、半紙を八つに疊んだ一枚の紙を無造作に出した。
『これ書いて來ました。何卒宜しく願ひます。』
笑ふ時目尻の皺の深くなる、口髯の下向いた、寒さうな、人の好さゝうな顏をした安藤は、臆病らしい眼附をして其紙と健の顏を見比べた。前夜訪ねて來て書式を聞いた行つたのだから、展《あ》けて見なくても解職願な事は解つてゐる。
そして、妙に喉に絡まつな聲で言つた。
『然うでごあんすか。』
『は。何卒《どうぞ》。』
綴ぢ了へた許りの新しい出席簿を持つて、立ち上つた孝子は、チラリと其疊んだ紙を見た。そして、健が四月に罷めると言ふのは豫々聞いてゐた爲めであらう、それが若しや解職願ではあるまいかと思はれた。
『何と申して可いか……ナンですけれども、お決《き》めになつてあるのだば爲方がない譯でごあんす。』
『何卒《どうか》宜しく、お取り計ひを願ひます。』
と言つて健は、輕く會釋して、職員室を出て了つた。その後から孝子も出た。
控所には、級が新しくなつて列ぶべき場所の解らなくなつた
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