耳敏くもそれを聞き附けて忠一が後退《あとしざ》りに出て行くと、
『まア、先生は。』と低聲に言つて、口を窄めて微笑みながら健の顏を見た。
『ハハヽヽ。』と、渠は輕く笑つた。そして、眼を圓くして直ぐ前に立つてゐる新入生の一人に、
『可いか。お前も學校に入ると、不斷先生の斷りなしに入つては不可《いけな》といふ處へ入れば、今の人の樣に叱られるんだぞ。』
『ハ。』と言つて、其兒はピョコリと頭を下げた。火傷の痕の大きい禿が後頭部に光つた。
『忠一イ。忠一イ。』と、宿直室から校長の妻の呼ぶ聲が洩れた。健と孝子は目と目で笑ひ合つた。
軈て、埃に染みた、黒の詰襟の洋服を着た校長の安藤が出て來て、健と代つて新入生を取扱つた。健は自分の卓に行つて、その受持の教務にかかつた。
九時半頃、秋野教師が遲刻の辯疏《いひわけ》を爲い/\入つて來て、何時も其室の柱に懸けて置く黒繻子の袴を穿いた時は、後から/\と來た新入生も大方來盡して、職員室の中は空いてゐた。健は卓の上から延び上つて、其處に垂れて居る索《なわ》を續け樣に強く引いた。壁の彼方では勇しく號鐘《かね》が鳴り出す。今か今かとそれを待ちあぐんでゐた生徒等は、
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