出しになつたのですから、お厭でせうし、それでは安藤先生もお困りでせうし、役場には又、御事情がお有りなのですから……』
と、心持息を逸《はず》ませて、呆氣にとられてゐる四人の顏を急しく見廻した。そして膨《むつち》りと肥つた手で靜かにその解職願を校長の卓から取り上げた。
『お預りしても宜しうございませうか? 出過ぎた樣でございますけれど。』
『は? は。それア何でごあんす……』と言つて、安藤は密《そつ》と秋野の顏色を覗つた。秋野は默つて煙管を咬へてゐる。
月給から言へば、秋野は孝子の上である。然し資格から言へば、同じ正教員でも一人は檢定試驗上りで、一人は女ながらも師範出だから、孝子は校長の次席なのだ。
秋野が預るとすると、男だから、且つは土地者《ところもの》だけに種々な關係があつて、屹度何かの反響が起る。孝子はそれも考へたのだ。そして、
『私の樣な無能者《やくにたゝず》がお預りしてゐると、一番安全でございます。ホホヽヽ。』と、取つてつけた樣に笑ひながら、校長の返事も待たず、その八つ折りの紙を袴の間に挾んで、自分の席に復した。その顏はぽうツと赧らんでゐた。
常にない其|行動《しうち》を、健は目を圓くして眺めた。
『成程。』と、その時東川は膝を叩いた。『並木先生は偉《えら》い。出來《でか》した、出來した、なアる程それが一番だ。』と言ひながら健の方を向いて、
『千早先生も、それなら可がべす?』
『並木先生。』と健は呼んだ。
『マ、マ。』と東川は手を擧げてそれを制した。『マ、これで可いでば。これで俺の役目も濟んだといふもんだ。ハハヽヽ。』
そして、急に調子を變へて、
『時に、安藤先生。今日の新入學者は何人位ごあんすか?』
『ハ!……えゝと……えゝと、』と、校長は周章《まごつ》いて了つて、無理に思ひ出すといふ樣に眉を萃《あつ》めた。
『四十八名でごあんす。然うでごあんしたなす。並木さん?』
『ハ。』
『四十八名すか? それで例年に比べて多い方すか、少ない方すか?』
話題は變つて了つた。
『秋野先生。』と言ひながら、胡麻鹽頭の、少し腰の曲つた小使が入つて來た。
『お家から迎《むけ》えが來たアす。』
『然うか。何用だべな。』と、秋野は小使と一緒に出て行つた。
腕組をして昵と考へ込んでゐた健は、その時つと上つた。
『お先に失禮します。』
『然うすか?』と、人々はその顏――屹と口を結んだ、額の廣い、その顏を見上げた。
『左樣なら。』
健は玄關を出た。處々乾きかゝつてゐる赤土の運動場には、今年初めての黄ろい蝶々が二つ、フハ/\と縺れて低く舞つてゐる。隅の方には、柵を潜つて來た四五羽の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が、コッ/\と遊んでゐた。
太い丸太の尖を圓めて二本植ゑた、校門の邊へ來ると、何れ女生徒の遺失《おと》したものであらう、小さい赤櫛が一つ泥の中に落ちてゐた。健はそれを足駄の齒で動かしでみた。櫛は二つに折れてゐた。
健が一箇年だけで罷めるといふのは、渠が最初、知合ひの郡視學に會つて、昔自分の學んだ郷里の學校に出てみたい、と申込んだ時から、その一箇年の在職中も、常々言つてゐた事で、又、渠自身は勿論、渠を知つてゐるだけの人は、誰一人、健を片田舍の小學教師などで埋もれて了ふ男とは思つてゐなかつた。小さい時分から霸氣の壯んな、才氣の溢れた、一時は東京に出て、まだ二十にも足らぬ齡で著書の一つも出した渠――その頃數少なき年少詩人の一人に、千早林鳥の名のあつた事は、今でも記憶してゐる人も有らう。――が、侘しい百姓村の單調な其日々々を、朝から晩まで、熱心に又樂しさうに、育ち卑しき涕垂《はなたら》しの兒女《こども》等を對手に送つてゐるのは、何も知らぬ村の老女達《としよりたち》の目にさへ、不思議にも詰らなくも見えてゐた。
何れ何事かやり出すだらう! それは、その一箇年の間の、四圍の人の渠に對する思惑《おもわく》であつた。
加之、年老《としと》つた兩親と、若い妻と、妹と、生れた許りの女兒と、それに渠を合せて六人の家族は、いかに生活費のかゝらぬ片田舍とは言へ、又、儉約家の母親がいかに儉《しま》つてみても、唯八圓の月給では到底喰つて行けなかつた。女三人の手で裁縫物など引き受けて遣つてもゐたが、それとても狹い村だから、月に一圓五十錢の收入は覺束ない。
そして、もう六十に手の達いた父の乘雲は、家の慘状《みじめさ》を見るに見かねて、それかと言つて何一つ家計の補助《たし》になる樣な事も出來ず、若い時は雲水もして歩いた僧侶上りの、思ひ切りよく飄然と家出をして了つて、この頃漸く居處が確まつた樣な状態であつた。
健でないにしたところが、必ず、何かもつと收入の多い職業を見附けねばならなかつたのだ。
『健や、四月になつたら學校は罷めて、何處さか行ぐ
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