は思つた。
『は?』と言つて、安藤は目の遣り場に困る程|周章《まごつ》いた。
『先生ア眞箇《ほんとう》に千早先生の辭表を受け取つたすか?』
『は。……いや、それでごあんすでば。今も申上げようかと思ひあんしたども、お話中に容喙《くちだし》するのも惡いと思つて、默つてあんしたが、先刻その、號鐘《かね》が鳴つて今始業式が始まるといふ時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。』と、硯箱の下から其解職願を出して、『何れ後刻《あと》で緩くりお話しようと思つてあんしたつたども、今迄その暇がなくて一寸此處にお預りして置いた譯でごあんす。何しろ思ひ懸けないことでごあんしてなす。ハ。』
『その書式を教へたのは誰だ?』と健は心の中で嘲笑《あざわら》つた。
『然うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ア少しも知らなごあんしたオなす。』と、秋野は初めて知つたと言ふ風に言つた。『千早先生も又、甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》御事情だかも知れねえども、今急にお罷めアねえくとも宜《よ》うごあんべアすか?』
『安藤先生、』と東川は呼んだ。『そせば先生も、その辭表を一旦お戻しやる積りだつたのだなす?』
『ハ。然うでごあんす。何れ後刻《あと》でお話しようと思つて、受け取つた譯でアごあせん、一寸お預りして置いただけでごあんす。』
『お戻しやれ、そだら。』と、東川は命令する樣な調子で言つた。『お戻しやれ、お聞きやつた樣な譯で今それを出されでア困りあんすでば。』
『ハ、奈何せ私も然う思つてだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。』と、顏を曇らして言つて、頬を凹ませてヂウ/\する煙管を強く吸つた。戻すも具合惡く、戻さぬも具合惡いといつた態度《やうす》である。
健は横を向いて、煙管の煙をフウと長く吹いた。
『お戻しやれ、俺ア學務委員の一人として勸告しあんす。』
安藤は思ひ切り惡く椅子を離れて、健の前に立つた。
『千早さん、先刻《さつき》は急しい時で……』と諄々《くど/\》辯疏《いひわけ》を言つて、『今お聞き申して居れば、役場の方にも種々《いろ/\》御事情がある樣でごあんすゝ、一寸お預りしただけでごあんすから、兎に角これはお返し致しあんす。』
然う言つて、解職願を健の前に出した。その手は顫へてゐた。
健は待つてましたと言はぬ許りに急に難《むづか》しい顏をして、霎時《しばし》、昵と校長の揉手をしてゐるその手を見てゐた。そして言つた。
『それでは、直接郡役所へ送つてやつても宜《よ》うございますか?』
『これはしたり!』
『先生。』『先生。』と、秋野と東川が同時に言つた。そして東川は續けた。
『然うは言ふもんでアない。今日は俺の顏を立てゝ呉れても可いでアねえすか?』
『ですけれど……それア安藤先生の方で、お考へ次第進達するのを延さうと延すまいと、それは私には奈何も出來ない事ですけれど、私の方では前々から決めてゐた事でもあり、且つ、何が何でも一旦出したのは、取るのは厭ですよ。それも私一人の爲めに村教育が奈何の恁うのと言ふのではなし、却つてお邪魔をしてゐる樣な譯ですからね。』と言つて、些と校長に横眼を與《く》れた。
『マ、マ、然うは言ふもんでア無《ね》えでばサ。前々から決めておいた事は決めて置いた事として、茲はまア村の頼みを肯いて呉れても可いでアねえすか? それも唯、一週間か其處いら待つて貰ふだけの話だもの。』
『兎に角お返ししあんす。』と言つて、安藤は手持無沙汰に自分の卓に歸つた。
『安藤先生。』と、東川は又喰つて掛る樣に呼んだ。『先生もまた、も少し何とか言ひ方が有りさうなもんでアねえすか? 今の樣でア、宛然《まるで》俺に言はれた許りで返す樣でアねえすか? 先生には、千早先生が何れだけこの學校に要のある人だか解らねえすか?』
『ハ?』と、安藤は目を怖々《おづ/\》さして東川を見た。意氣地なしの、能力の無い其顏には、あり/\と當惑の色が現れてゐる。
と、健は、然うして擦《す》つた揉んだと果てしなく諍つてるのが――校長の困り切つてるのが、何だか面白くなつて來た。そして、つと立つて、解職願を又校長の卓に持つて行つた。
『兎に角之は貴方に差上げて置きます。奈何なさらうと、それは貴方の御權限ですが……』と言ひながら、傍から留めた秋野の言葉は聞かぬ振をして、自分の席に歸つて來た。
『困りあんしたなア。』と、校長は兩手で頭を押へた。
眇目《めつかち》の東川も、意地惡い興味を覺えた樣な顏をして、默つてそれを眺めた。秋野は煙管の雁首を見ながら煙草を喫んでゐる。
と、今迄何も言はずに、四人の顏を見廻してゐた孝子は、思ひ切つた樣に立ち上つた。
『出過ぎた樣でございますけれども……あの、それは私がお預り致しませう。……千早先生も一旦お
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