に、孝子は一寸薄目を與《く》れて、
『それア私の方は……』と言ひ出した時、入口の障子がガラリと開いて、淺黄がかつた縞の古袷に、羽織も着ず、足袋も穿かぬ小造りの男が、セカ/\と入つて來た。
『やア、誰かと思つたば東川さんか。』と、秋野は言つた。
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》に吃驚する事はねえさ。』
然う言ひながら東川は、型の古い黒の中折を書類入の戸棚の上に載せて、
『やアお急しい樣でごあんすな。好いお天氣で。』と、一同に挨拶した。そして、手づから椅子を引き寄せて、遠慮もなく腰を掛け、校長や秋野と二言三言話してゐたが、何やら氣の急ぐ態度であつた。その横顏を健は昵と凝視《みつ》めてゐた。齡は三十四五であるが、頭の頂邊が大分圓く禿げてゐて、左眼《ひだりめ》が潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけてゐる。小形の鼻が尖つて、見るから一癖あり相な、拔け目のない顏立ちである。
『時に。』と、東川は話の斷れ目を待ち構へてゐた樣に、椅子を健の卓に向けた。『千早先生。』
『何です?』
『實は其用で態々來たのだがなす、先生、もう出したすか? 未だすか?』
『何をです?』
『何をツて。其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》に白ばくれなくても可《よ》ごあんすべ。出したすか? 出さねえすか?』
『だから何をさ?』
『解らない人だなア。辭表をす。』
『あゝ、その事《こつ》ですか。』
『出したすか? 出さねえすか?』
『何故《なぜ》?』
『何故ツて。用があるから訊くのす。』
よくツケ/\と人を壓迫《おしつ》ける樣な物言ひをする癖があつて、多少の學識もあり、村で健が友人扱ひをするのは此男の外に無かつた。若い時は青雲の夢を見たもので、機會あらば宰相の位にも上らうといふ野心家であつたが、財産のなくなると共に徒らに村の物笑ひになつた。今では村會議員に學務委員を兼ねてゐる。
『出しましたよ。』と、健は平然として答へた。
『眞箇《ほんと》ですか?』と東川は力を入れる。
『ハハヽヽ。』
『だハンテ若い人は困る。人が甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》に心配してるかも知らないで、氣ばかり早くてさ。』
『それ/\、煙草の火が膝に落ちた。』
『これだ!』と、呆れたやうな顏をしながら、それでも急いで吸殼を膝から拂ひ落して、『先生、出したつても今日の事だから、まだ校長の手許にあるベアハンテ、今の間《うち》に戻してござれ。』
『何故《なぜ》?』
『いやサ、詳しく話さねえば解らねえが、……實はなす。』
と穩かな調子になつて、『今日何も知らねえで役場さ來てみたのす。そすると種市助役が、一寸別室で呼ぶだハンテ、何だと思つて見だば先生の一件さ。昨日逢つた時、明日辭表を出すつてゐだつけが、何しろ村教育も漸々《やう/\》發展の緒に就いた許りの時だのに、千早先生に罷められては誠に困る。それがと言つて今は村長も留守で、正式に留任勸告をするにも都合が惡い。何れ二三日中には村長も歸るし、七日には村會も開かれるのだから、兎も角もそれまでは是非待つて貰ひたいと言ふのです。それで畢竟《つまり》は種市助役の代理になつて、今俺ア飛んで來たどごろす。解つたすか?』
『解るには解つたが、……奈何も御苦勞でした。』
『御苦勞も糞も無《ね》えが、なす、先生、然う言ふ譯だハンテ、何卒《どうか》一先づ戻して貰つてござれ。』
戻して貰へ、といふ、その「貰へ」といふ語が矜持心《ほこり》の強い健の耳に鋭く響いた。そして、適確《きつぱり》した調子で言つた。
『出來ません、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事は。』
『それだハンテ困る。』
『御好意は十分有難く思ひますけれど、爲方がありません、出して了つた後ですから。』
秋野も校長も孝子も、鳴を潜めて二人の話を聞いてゐた。
『出したと言つたところです、それが未だ學校の中にあるのだば、謂はば未だ内輪だけの事でアねえすか?』
『東川さん、折角の御勸告は感謝しますけれど、貴方は私の氣性を御存知の筈です。私は一旦出して了つたのは、奈何あつても、譬へそれが自分に不利益であつても取り戻すことは厭です。内輪だらうが外輪だらうが、私は其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事は考へません。』
然う言つた健の顏は、もう例の平然《けろり》とした態《さま》に歸つたゐて、此上いくら言つたとて動きさうにない。言ひ出しては後へ退《ひ》かぬ健の氣性は、東川もよく知つてゐた。
東川は突然椅子を捻ぢ向けた。
『安藤先生。』
その聲は、今にも喰つて掛るかと許り烈しかつた。嚇《おど》すナ、と健
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