い顏をして、霎時《しばし》、昵と校長の揉手をしてゐるその手を見てゐた。そして言つた。
『それでは、直接郡役所へ送つてやつても宜《よ》うございますか?』
『これはしたり!』
『先生。』『先生。』と、秋野と東川が同時に言つた。そして東川は續けた。
『然うは言ふもんでアない。今日は俺の顏を立てゝ呉れても可いでアねえすか?』
『ですけれど……それア安藤先生の方で、お考へ次第進達するのを延さうと延すまいと、それは私には奈何も出來ない事ですけれど、私の方では前々から決めてゐた事でもあり、且つ、何が何でも一旦出したのは、取るのは厭ですよ。それも私一人の爲めに村教育が奈何の恁うのと言ふのではなし、却つてお邪魔をしてゐる樣な譯ですからね。』と言つて、些と校長に横眼を與《く》れた。
『マ、マ、然うは言ふもんでア無《ね》えでばサ。前々から決めておいた事は決めて置いた事として、茲はまア村の頼みを肯いて呉れても可いでアねえすか? それも唯、一週間か其處いら待つて貰ふだけの話だもの。』
『兎に角お返ししあんす。』と言つて、安藤は手持無沙汰に自分の卓に歸つた。
『安藤先生。』と、東川は又喰つて掛る樣に呼んだ。『先生もまた、も少し何とか言ひ方が有りさうなもんでアねえすか? 今の樣でア、宛然《まるで》俺に言はれた許りで返す樣でアねえすか? 先生には、千早先生が何れだけこの學校に要のある人だか解らねえすか?』
『ハ?』と、安藤は目を怖々《おづ/\》さして東川を見た。意氣地なしの、能力の無い其顏には、あり/\と當惑の色が現れてゐる。
と、健は、然うして擦《す》つた揉んだと果てしなく諍つてるのが――校長の困り切つてるのが、何だか面白くなつて來た。そして、つと立つて、解職願を又校長の卓に持つて行つた。
『兎に角之は貴方に差上げて置きます。奈何なさらうと、それは貴方の御權限ですが……』と言ひながら、傍から留めた秋野の言葉は聞かぬ振をして、自分の席に歸つて來た。
『困りあんしたなア。』と、校長は兩手で頭を押へた。
眇目《めつかち》の東川も、意地惡い興味を覺えた樣な顏をして、默つてそれを眺めた。秋野は煙管の雁首を見ながら煙草を喫んでゐる。
と、今迄何も言はずに、四人の顏を見廻してゐた孝子は、思ひ切つた樣に立ち上つた。
『出過ぎた樣でございますけれども……あの、それは私がお預り致しませう。……千早先生も一旦お
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