一枚、消印《スタンプ》の逸《はづ》れてゐる郵券を見つけ出した。そしてそれを貼つて送つた。或《ある》雨の降る日であつた。妻の敏子は、到頭金にならなかつた原稿の、包紙の雨に濡れたのを持つて、渠の居間にしてゐる穢《むさくる》しい二階に上つて来た。
『また帰つて来たのか? アハヽヽヽ。』
と渠は笑つた。そして、その儘本箱の中に投げ込んで、二度と出して見ようともしなかつた。
 何時《いつ》の間にか、渠は自信といふものを失つてゐた。然しそれは、渠自身も、四周の人も気が付かなかつた。
 そして、前夜、短い手紙でも書く様に、何気なくスラスラと解職願を書きながらも、学校を罷《や》めて奈何《どう》するといふ決心はなかつたのだ。
 健は、例《いつも》の様に亭乎《すらり》とした体を少し反身《そりみ》に、確乎《しつかり》した歩調《あしどり》で歩いて、行き合ふ児女等《こどもら》の会釈に微笑みながらも、始終|思慮《かんがへ》深い眼付をして、
「罷めても食へぬし、罷めなくても食へぬ……。」
と、その事|許《ばか》り思つてゐた。
 家《うち》へ入ると、通し庭の壁側《かべぎは》に据ゑた小形の竈《へつつひ》の前に小さく蹲《しやが》んで、干菜《ほしな》でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、
『帰つたか。お腹《なか》が減つたつたべアな?』
と、強《し》ひて作つた様な笑顔を見せた。今が今まで我家の将来《ゆくすゑ》でも考へて、胸が塞《つま》つてゐたのであらう。
 縞目も見えぬ洗晒《あらひざら》しの双子《ふたこ》の筒袖の、袖口の擦切《すりき》れたのを着てゐて、白髪交りの頭に冠つた浅黄の手拭の上には、白く灰がかゝつてゐた。
『然うでもない。』
と言つて、渠は足駄を脱いだ。上框《あがりがまち》には妻の敏子が、垢着いた木綿物の上に女児《こども》を負《おぶ》つて、顔にかゝるほつれ毛を気にしながら、ランプの火屋《ほや》を研《みが》いてゐた。
『今夜は客があるぞ、屹度《きつと》。』
『誰方《どなた》?』
 それには答へないで、
『あゝ、今日は急《いそが》しかつた。』
と言ひながら、健は勢ひよくドン/\梯子《はしご》を上つて行つた。
[#地から1字上げ]((その一、終))

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(予が今までに書いたものは、自分でも忘れたい、人にも忘れて貰ひたい、そして、予は今、予にとつての新らしい覚悟を以てこの長編を書き出してみた。他日になつたら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰ひたくなる時があるかも知れぬ。――啄木)
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[#地から1字上げ]〔「スバル」明治四十二年二月号〕



底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
   1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
底本の親本:「スバル 第二号」
   1909(明治42)年2月1日発行
初出:「スバル 第二号」
   1909(明治42)年2月1日発行
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月18日作成
青空文庫ファイル:
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