て来ました。何卒《どうぞ》宜しく願ひます。』
 笑ふ時目尻の皺の深くなる、口髯の下向いた、寒さうな、人の好さ相な顔をした安藤は、臆病らしい眼付をして其紙と健の顔を見比《みくら》べた。前夜訪ねて来て書式を聞いて行つたのだから、展《あ》けて見なくても解職願な事は解つてゐる。
 そして、妙に喉に絡《から》まつた声で言つた。
『然うでごあんすか。』
『は。何卒《どうぞ》。』
 綴ぢ了へた許りの新しい出席簿を持つて、立ち上つた孝子は、チラリと其畳んだ紙を見た。そして、健が四月に罷めると言ふのは予々《かねがね》聞いてゐた為であらう、それが若しや解職願ではあるまいかと思はれた。
『何と申して可いか……ナンですけれども、お決めになつてあるのだば為方《しかた》がない訳でごあんす。』
『何卒宜しく、お取り計ひを願ひます。』
と言つて健は、軽く会釈して、職員室を出て了つた。その後から孝子も出た。
 控所には、級が新しくなつて列《なら》ぶべき場所の解らなくなつた生徒が、ワヤワヤと騒いでゐた。秋野は其間を縫つて歩いて、
『先《せん》の場所《ところ》へ列ぶのだ、先の場所へ。』
と叫んでゐるが、生徒等は、自分達が皆
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