其人数を引受けて少し周章《まごつ》いたといふ態《ふう》で、腰も掛けずに何やら急《いそ》がしく卓の上で帳簿を繰つてゐた。
そして、健が入つて来たのを見ると、
『あ、先生!』
と言つて、ホツと安心した様な顔をした。
百姓達は、床板に膝を突いて、交る/″\先を争ふ様に健に挨拶した。
『老婆《おばあ》さん、いくら探しても、松三郎といふのは役場から来た学齢簿の写しにありませんよ。』と、孝子は心持眉を顰《ひそ》めて、古手拭を冠つた一人の老女《としより》に言つてゐる。
『ハア。』と老女は当惑した様に眼をしよぼつかせた。
『無い筈はないでせう。尤《もつと》も此辺《このへん》では、戸籍上の名と家《うち》で呼ぶ名と違ふのがありますよ。』と、健は喙《くち》を容れた。そして老女《としより》に、
『芋田《いもだ》の鍛冶屋だつたね、婆さんの家《うち》は?』
『ハイ。』
『いくら見てもありませんの。役場にも松三郎と届けた筈だつて言ひますし……』と孝子はまた初めから帳簿を繰つて、『通知書を持つて来ないもんですから、薩張《さつぱり》分りませんの。』
『可怪《をかし》いなア。婆さん、役場から真箇《ほんと》に通知書が行
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