『千早先生も、それなら可《え》がべす?』
『並木先生。』と健は呼んだ。
『マ、マ。』と東川は手を挙げてそれを制した。『マ、これで可《い》いでば。これで俺の役目も済んだといふもんだ。ハヽヽヽ。』
 そして、急に調子を変へて、
『時に、安藤先生。今日の新入学者は何人位ごあんすか?』
『ハ?……えゝと……えゝと、』と、校長は周章《まごつ》いて了つて、無理に思出すといふ様に眉を萃《あつ》めた。『四十八名でごあんす。然《さ》うでごあんしたなす。並木さん?』
『ハ。』
『四十八名すか? それで例年に比べて多い方すか、少い方すか?』
 話題《はなし》は変つて了つた。
『秋野先生、』
と言ひながら、胡麻塩頭の、少し腰の曲つた小使が入つて来た。
『お家から迎《むけ》えが来たアす。』
『然うか。何用だべな。』と、秋野は小使と一緒に出て行つた。
 腕組をして眤《じつ》と考込んでゐた健は、その時ツと立上つた。
『お先に失礼します。』
『然うすか?』と、人々はその顔――屹《きつ》と口を結んだ、額の広い、その顔を見上げた。
『左様なら。』
 健は玄関を出た。処々乾きかゝつてゐる赤土の運動場には、今年初めての黄《きいろ》い蝶々が二つ、フワ/\と縺《もつ》れて低く舞つてゐる。隅の方には、柵を潜つて来た四五羽の鶏が、コツ/\と遊んでゐた。
 太い丸太の尖《さき》を円めて二本植ゑた、校門の辺《ところ》へ来ると、何《いづ》れ女生徒の遺失《おと》したものであらう、小さい赤櫛が一つ泥の中に落ちてゐた。健はそれを足駄の歯で動かしてみた。櫛は二つに折れてゐた。
 健が一箇年だけで罷《や》めるといふのは、渠が最初、知合の郡視学に会つて、昔自分の学んだ郷里の学校に出てみたい、と申込んだ時から、その一箇年の在職中も、常々言つてゐた事で、又、渠自身は勿論、渠を知つてゐるだけの人は、誰一人、健を片田舎の小学教師などで埋もれて了ふ男とは思つてゐなかつた。小《ちひさ》い時分から覇気の壮《さか》んな、才気に溢れた、一時は東京に出て、まだ二十《はたち》にも足らぬ齢で著書の一つも出した渠――その頃数少き年少詩人の一人に、千早林鳥《ちはやりんてう》の名のあつた事は、今でも記憶してゐる人も有らう。――が、侘しい百姓村の単調な其日々々を、朝から晩まで、熱心に、又楽し相に、育ち卑しき涕垂《はなたら》しの児女等《こどもら》を対手に送つてゐるのは、何も知らぬ村の老女達《としよりたち》の目にさへ、不思議にも詰らなくも見えてゐた。
 何《いづ》れ何事《なに》かやり出すだらう! それは、その一箇年の間の、四周《あたり》の人の渠に対する思惑であつた。
 加之《のみならず》、年老《としと》つた両親と、若い妻と、妹と、生れた許りの女児《をんなのこ》と、それに渠を合せて六人の家族は、いかに生活費の費《かか》らぬ片田舎とは言へ、又、倹約家《しまりや》の母がいかに倹《しま》つてみても、唯《たつた》八円の月給では到底喰つて行けなかつた。女三人の手で裁縫物《したてもの》など引受けて遣つてもゐたが、それとても狭い村だから、月に一円五十銭の収入《みいり》は覚束ない。
 そして、もう六十に手の達《とど》いた父の乗雲は、家《うち》の惨状《みじめさ》を見るに見かねて、それかと言つて何一つ家計の補助《たし》になる様な事も出来ず、若い時は雲水もして歩いた僧侶上りの、思切りよく飄然《ふらり》と家出をして了つて、この頃漸く居処が確《たしか》まつた様な状態《ありさま》であつた。
 健でないにしたところが、必ず、何かもつと収入《みいり》の多い職業を見付けねばならなかつたのだ。
『健や、四月になつたら学校は罷めて、何処さか行ぐべアがな?』
と、渠の母親――背中の方が頭よりも高い程腰の曲つた、極く小柄な渠の母親は、時々心配相に恁《か》う言つた。
『あゝ、行くさ。』と、其度《そのたび》渠は恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》返事をしてゐた。
『何処さ?』
『東京。』
 東京へ行く! 行つて奈何《どう》する? 渠は以前の経験で、多少は其名を成してゐても、詩では到底生活されぬ事を知つてゐた。且《か》つは又、此頃の健には些《ちつ》とも作詩の興がなかつた。
 小説を書かう、といふ希望は、大分長い間健の胸にあつた。初めて書いてみたのは、去年の夏、もう暑中休暇に間のない頃であつた。『面影』といふのがそれで、昼は学校に出ながら、四日続け様に徹夜して百四十何枚を書了《かきを》へると、渠はそれを東京の知人に送つた。十二三日経つて、原稿はその儘帰つて来た。また別の人に送つて、また帰つて来た。三度目に送る時は、四銭の送料はあつたけれども、添へてやる手紙の郵税が無かつた。健は、何十通の古手紙を出してみて、漸々《やうやう》
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