及第して上の級に進んだのに、今迄の場所に列ぶのが不見識な様にでも思はれるかして、仲々言ふことを聞かない。と見た健は、号令壇を兼ねてゐる階段の上に突立つて、
『何を騒いでゐる。』
と呶鳴つた。耳を聾する許りの騒擾《さわぎ》が、夕立の霽《は》れ上る様にサツと収つて、三百近い男女の瞳はその顔に萃《あつ》まつた。
『一同《みんな》今迄の場所《ところ》に今迄の通り列べ。』
ゾロ/\と足音が乱れて、それが鎮《しづま》ると、各級は皆規則正しい二列縦隊を作つてゐた。鬩乎《ひつそり》として話一つする者がない。新入生の父兄は、不思議相にしてそれを見てゐた。
渠は緩《ゆつく》りした歩調で階段を降りて、秋野と共に各級をその新しい場所に導いた。孝子は新入生を集めて列を作らしてゐた。
校長が出て来て壇の上に立つた。密々《ひそひそ》と話声が起りかけた。健は背後《うしろ》の方から一つ咳払ひをした。話声はそれで再《また》鎮つた。
『えゝ、今日から明治四十年度の新しい学年が始まります……』
と、校長は両手を邪魔相に前で揉みながら、低い、怖々《おづおづ》した様な声で語り出した。二分も経つか経たぬに、
『三年一万九百日。』
と高等科の生徒の一人が、妙な声色を使つて言つた。
『叱《し》ツ。』
と秋野が制した。潜笑《しのびわら》ひの声は漣《さゞなみ》の様に伝はつた。そして新しい密語《ひそめき》が其に交《まじ》つた。
それは恰度今の並木孝子の前の女教師が他村へ転任した時――去年の十月であつた。――安藤は告別の辞《ことば》の中で「三年一万九百日」と誤つて言つた。その女教師は三年の間この学校にゐたつたのだ。それ以来|年長《としかさ》の生徒は何時もこの事を言つては、校長を軽蔑する種にしてゐる。恰度この時、健もその事を思出してゐたので、も少しで渠も笑ひを洩らすところであつた。
密語《ひそめき》の声は漸々《だんだん》高まつた。中には声に出して何やら笑ふのもある。と、孝子は草履の音を忍ばせて健の傍《かたはら》に寄つて来た。
『先生が前の方へ被入《いらつしや》ると宜うござんす。』
『然うですね。』と渠も囁いた。
そして静かに前の方へ出て、階段の最も低い段の端の方へ立つた。場内はまた水を打つた様に※[#「門<嗅のつくり」、323−上−10]乎《ひつそり》とした。
不図渠は、諸有《あらゆる》生徒の目が、諄々《くどく
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