其人数を引受けて少し周章《まごつ》いたといふ態《ふう》で、腰も掛けずに何やら急《いそ》がしく卓の上で帳簿を繰つてゐた。
そして、健が入つて来たのを見ると、
『あ、先生!』
と言つて、ホツと安心した様な顔をした。
百姓達は、床板に膝を突いて、交る/″\先を争ふ様に健に挨拶した。
『老婆《おばあ》さん、いくら探しても、松三郎といふのは役場から来た学齢簿の写しにありませんよ。』と、孝子は心持眉を顰《ひそ》めて、古手拭を冠つた一人の老女《としより》に言つてゐる。
『ハア。』と老女は当惑した様に眼をしよぼつかせた。
『無い筈はないでせう。尤《もつと》も此辺《このへん》では、戸籍上の名と家《うち》で呼ぶ名と違ふのがありますよ。』と、健は喙《くち》を容れた。そして老女《としより》に、
『芋田《いもだ》の鍛冶屋だつたね、婆さんの家《うち》は?』
『ハイ。』
『いくら見てもありませんの。役場にも松三郎と届けた筈だつて言ひますし……』と孝子はまた初めから帳簿を繰つて、『通知書を持つて来ないもんですから、薩張《さつぱり》分りませんの。』
『可怪《をかし》いなア。婆さん、役場から真箇《ほんと》に通知書が行つたのかい? 子供を学校に出せといふ書付が?』
『ハイ。来るにア来ましたども、弟の方のな許りで、此児《これ》(と顎で指して、)のなは今年ア来ませんでなす。それでハア、持つて来《こ》なごあんさす。』
『今年は来ない? 何だ、それぢや其児は九歳《ここのつ》か、十歳《とを》かだな?』
『九歳《ここのつ》。』と、その松三郎が自分で答へた。膝に補布《つぎ》を当てた股引を穿いて、ボロ/\の布の無尻《むじり》を何枚も/\着膨れた、見るから腕白らしい児であつた。
『九歳なら去年の学齢だ。無い筈ですよ、それは今年だけの名簿ですから。』
『去年ですか。私《わたし》は又、其点《そこ》に気が付かなかつたもんですから……』と、孝子は少しきまり悪気《わるげ》にして、其児の名を別の帳簿に書入れる。
『それぢや何だね、』と、健は再《また》老女の方を向いた。『此児《これ》の弟といふのが、今年|八歳《やつつ》になつたんだらう。』
『ハイ。』
『何故《なぜ》それは伴れて来ないんだ?』
『ハイ。』
『ハイぢやない。此児は去年から出さなけれアならないのを、今年まで延したんだらう。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けた
前へ
次へ
全22ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング