葬列
石川啄木
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)嘗《かつ》て
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|土地《ところ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符三つ、36−上−12]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポタリ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
久し振で帰つて見ると、嘗《かつ》ては『眠れる都会』などと時々|土地《ところ》の新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは余程その趣を変へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と変つて、恰度自分の机を置いた辺《あたり》と思はれるところへ、吊された大章魚《おほだこ》の足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共此大章魚の首縊《くびくくり》を見た。若しこれが昔であつたなら、恁《こ》う何日も売れないで居ると、屹度《きつと》、自分が平家物語か何かを開いて、『うれしや水、鳴るは滝の水日は照るとも絶えず、………フム面白いな。』などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ/\と、襟首に落ちやうと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居る間《うち》に、早く何処かの内儀《おかみ》さんが来て、全体《みんな》では余計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れれば可《いい》に、と思つた。此家《ここ》の隣屋敷の、時は五月の初め、朝な/\学堂へ通ふ自分に、目も覚むる浅緑の此上《こよ》なく嬉しかつた枳殻垣《からたちがき》も、いづれ主人《あるじ》は風流を解《げ》せぬ醜男《ぶをとこ》か、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの秘密を此屋敷に蔵して置く底《てい》の男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少許《すこし》行くと、大沢河原から稲田を横ぎつて一文字に、幅広い新道《しんみち》が出来て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小路《こうじ》、――自分の極く親しくした藻外といふ友の下宿の前へ出る道は、今廃道同様の運命になつて、花崗石《みかげいし》の截石《きりいし》や材木が処狭《ところせ》きまで積まれて、その石や木間から、尺もある雑草が離々として生ひ乱れて居る。自分は之を見て唯無性に心悲《うらがな》しくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懐ふて見やうかとも思つたが、イヤ待て恁《こん》な昼日中に、宛然《さながら》人生の横町と謂つた様な此処を彷徨《うろつ》いて何か明処《あかるみ》で考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覚と思ひ返して止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度|外見《みえ》を憚《はばか》らずに何か詩的な立廻を始めたに違ひない。兎角人間は孤独の時に心弱いものである。此|三《みつ》の変遷は、自分には毫も難有くない変遷である。恁《こん》な変様《かはりやう》をする位なら、寧ろ依然《やはり》『眠れる都会』であつて呉れた方が、自分並びに『美しい追憶の都』のために祝すべきであるのだ。以前《もと》平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた県庁は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷評《ひやか》した肴町《さかなちやう》呉服町《ごふくちやう》には、一度神田の小川町で見た事のある様な本屋や文房具店も出来た。就中《なかんづく》破天荒な変化と云ふべきは、電燈会社の建つた事、女学生の靴を穿く様になつた事、中津川に臨んで洋食店《レストウラント》の出来た事、荒れ果てた不来方城《こずかたじやう》が、幾百年来の蔦衣《つたごろも》を脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿頭《はげあたま》に産毛が生えた様な此旧城の変方《かはりかた》などは、自分がモ少し文学的な男であると、『噫、汝|不来方《こずかた》の城よ※[#感嘆符三つ、36−上−12] 汝は今これ、漸くに覚醒し来れる盛岡三万の市民を下瞰しつつ、……文明の儀表なり。昨《さく》の汝が松風明月の怨《うらみ》長《とこし》なへに尽きず……なりしを知るものにして、今来つて此盛装せる汝に対するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讚するの辞なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の楽園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く/\思へ、昨日《きのふ》杖を此城頭に曳いて、鐘声を截せ来る千古一色の暮風に立ち、涙を萋々《さいさい》たる草裡《さうり》に落したりし者、よくこの今日あるを予知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去来して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して、蔦蘿雑草《てうらざつさう》の底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫|已《や》んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭|恁《こん》な感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々《やうやう》開園式が済んだ許りの、文明的な、整然《きちん》とした、別に俗気のない、そして依然《やはり》昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の気に入つたからである。可愛い児供《こども》の生れた時、この児も或は年を老つてから悲惨《みじめ》な死様《しにざま》をしないとも限らないから、いつそ今|斯《か》うスヤ/\と眠つてる間に殺した方が可《いい》かも知れぬ、などと考へるのは、実に天下無類の不所存《ぶしよぞん》と云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不図次の様な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些《ちと》憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲《ここ》は何も本気で云ふのでなくて、唯|序《ついで》に白状するのだから、別段|差閊《さしつかへ》もあるまい。考といふは恁《かう》だ。此公園を公園でなくして、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ様に厚い枳殻垣《からたちがき》を繞らして、本丸の跡には、希臘《ギリシヤ》か何処かの昔の城を真似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髪をドツサリと肩に垂らして、露西亜《ロシヤ》の百姓の様な服を着て、唯一人其家に住む。終日読書をする。霽《は》れた夜には大砲の様な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の発明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川岸《かし》の洋食店から上等の料理を取寄る。尤も此給仕人は普通《ただ》の奴では面白くない。顔は奈何《どう》でも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙色《あけぼのいろ》か浅緑の簡単な洋服を着て、面紗《ヴエール》をかけて、音のしない様に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除をするのは面倒だから、可成《なるべく》散らかさない様に気を付ける。そして、一年に一度、昔|羅馬《ロウマ》皇帝が凱旋式に用ゐた輦《くるま》――それに擬《ま》ねて『即興詩人』のアヌンチヤタが乗廻した輦、に擬ねた輦に乗つて、市中を隈なく廻る。若し途中で、或は蹇《あしなへ》、或は盲目《めくら》、或は癩を病む者、などに逢つたら、(その前に能く催眠術の奥義を究めて置いて、)其奴《そいつ》の頭に手が触つた丈で癒してやる。……考へた時は大変面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒舌《おしやべり》は品格を傷《そこな》ふ所以である。
立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十数|哩《マイル》を隔てた或る寒村に生れた。其処の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人|笈《きふ》をこの不来方城下に負ひ来つて、爾後八星霜といふもの、夏休暇《なつやすみ》毎の帰省を除いては、全く此土地で育つた。母がさる歴《れつき》とした旧藩士の末娘であつたので、随つて此旧城下蒼古の市《まち》には、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また従兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁辺のものを代る/″\喰ひ廻つて、そして、高等小学から中学と、漸々《だんだん》文の林の奥へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした沢山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顔は何処かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不図軍人志願の心を起して毎日体操を一番真面目にやつた時代の事や、ビスマークの伝を読んでは、直《すぐ》小比公《せうびこう》気取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生来虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた処から、小ギボンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に訳して、かの哀れなる亡国の民に愛国心を起さしめ、独立軍を挙げさせる、イヤ其前に日本は奈何《どう》かしてシヤムを手に入れて置く必要がある。……其時は、自分はバイロンの轍《てつ》を踏んで、筆を剣に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の様な双眸《さうぼう》の底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると気が付いてから、遽《には》かに夜も昼も香《かぐ》はしい夢を見る人となつて旦暮《あけくれ》『若菜集』や『暮笛集』を懐にしては、程近い田畔《たんぼ》の中にある小さい寺の、巨《おほ》きい栗樹《くりのき》の下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、学校へ行つても、倫理の講堂で竊《そつ》と『乱れ髪』を出して読んだりした時代の事や、――すべて慕《なつ》かしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市《まち》を舞台に取つて居る。盛岡は実に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。
十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に帰つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の検定試験を受けて、歴史科中等教員の免状を貰ふた。唯茲に一つ残念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試験の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城県第○中学の助教諭、両親と小妹《せうまい》とをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、余裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。
今年の夏は、校長から常陸《ひたち》郷土史の材料蒐集を嘱託せられて、一箇月半の楽しい休暇を全く其為めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵《くりやがはのさく》を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく実地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には帰つて来たのである。新山堂と呼ばるる稲荷神社の直《すぐ》背後《うしろ》の、母とは二歳《ふたつ》違ひの姉なる伯母の家に車の轅《ながえ》を下させて、出迎へた、五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、浩《かう》さんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背広姿を見上げ見下しされたのは、実に一昨日《をとつひ》の秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穏やかな黄昏時《たそがれどき》であつた。
遠く岩手、姫神、南昌《なんしやう》、早池峰《はやちね》の四峯を繞らして、近くは、月に名のある鑢山《たたらやま》、黄牛《あめうし》の背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の浅瀬に跨《またが》り、水音|緩《ゆる》き北上の流に臨み、貞任《さだたう》の昔忍ばるる夕顔瀬橋、青銅の擬宝珠の古色|滴《したた》る許りなる上《かみ》中《なか》の二橋、杉土堤《すぎどて》の夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然《ぎぜん》として立つ不来方城に登つて瞰下《みおろ》せば、高き低き茅葺《ちがや》柾葺《まさがや》の屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、実に誰が見
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング