槿垣の下に、山の端はなれた許りの大満月位な、シツポリと露を帯びた雪白の玉菜《キヤベーヂ》が、六個《むつ》七個《ななつ》並んで居た。自分は、霜枯れ果てた此畑中に、ひとり実割れるばかり豊《ふくよ》かな趣を見せて居る此『野菜の王』を、少なからず心に嬉しんだ。
 不図《ふと》、何か知ら人の近寄る様なけはひがした。菜園満地の露のひそめき乎《か》? 否々、露に声のある筈がない。と思つて眼を転じた時、自分はひやり[#「ひやり」に傍点]と許り心を愕《おどろ》かした。そして、呼吸《いき》をひそめた。
 前にも云つた如く、今自分の前なる古い木槿垣は、稲荷社の境内と此野菜畑との境である。そして此垣の外僅か数尺にして、朽ちて見える社殿の最後の柱が立つて居る。人も知る如く、稲荷社の背面には、高い床下に特別な小龕《せうがん》が造られてある。これは、夜な/\正一位様の御使なる白狐が来て寝る処とかいふ事で、かの鰯の頭も信心柄の殊勝な連中が、時に豆腐の油揚や干鯡《ほしにしん》、乃至《ないし》は強飯《こはいひ》の類の心籠めた供物《くぶつ》を入れ置くところである。今自分は、落葉した木槿垣を透《すか》して、此白狐の寝殿を内部まで覗ひ見るべき地位に立つて居たのだ。
 然し、自分のひやり[#「ひやり」に傍点]と許り愕いたのは、敢て此処から牛の様な白狐が飛び出したといふ訳ではなかつた。
 此古い社殿の側縁《そくえん》の下を、一人の異装した男が、破草履《やれざうり》の音も立てずに、此方《こなた》へ近づいて来る。脊のヒヨロ高い、三十前後の、薄髯の生えた、痩せこけた頬に些《さ》の血色もない、塵埃《ごみ》だらけの短かい袷を着て、穢《よご》れた白足袋を穿いて、色褪せた花染メリンスの女帯を締めて、赤い木綿の截片《きれ》を頸に捲いて、……俯向いて足の爪尖を瞠《みつ》め乍ら、薄笑《うすらわらひ》をして近づいて来る。
 自分は一目見た丈けで、此異装の男が、盛岡で誰知らぬものなき無邪気な狂人、高沼繁であると解つた。彼が日々|喪狗《さうく》の如く市中を彷徨《うろつ》いて居る、時として人の家の軒下に一日を立ち暮らし、時として何か索《もと》むるものの如く同じ道を幾度も/\往来して居る男である事は、自分のよく知つて居る処で、又、嘗て彼が不来方城頭に跪《ひざまづ》いて何か呟やき乍ら天の一方を拝んで居た事や、或る夏の日の真昼時、恰度課業が済んでゾロ/\と生徒の群り出づる時、中学校の門前に衛兵の如く立つて居て、出て来る人ひとり/\に慇懃《いんぎん》な敬礼を施した事や、或る時、美人の名の高かつた、時の県知事の令夫人が、招魂社の祭礼の日に、二人の令嬢と共に参拝に行かれた処が、社前の大広場、人の群つて居る前で、此男がフイと人蔭から飛び出して行つて、大きい浅黄色の破風呂敷《やれふろしき》を物をも云はず其盛装した令夫人に冠せた事などは、皆自分の嘗て親しく目撃したところであつた。彼には父もあり母もある、また家もある。にも不拘《かかはらず》、常に此新山堂下の白狐龕《びやつこがん》を無賃の宿として居るといふ事も亦、自分の聞き知つて居た処である。
 異装の男の何人であるかを見定めてからは、自分は平生の通りの心地になつた。そして、可成彼に暁《さと》られざらむ様に息を殺して、好奇心を以て仔細に彼の挙動に注目した。
 薄笑をして俯向き乍ら歩いてくる彼は、軈《やが》て覚束なき歩調《あしどり》を進めて、白狐龕の前まで来た。そして、礑《はた》と足を止めた。同時に『ウツ』と声を洩して、ヒヨロ高い身体を中腰にした。ヂリ/\と少許《すこし》づつ少許づつ退歩《あとしざり》をする。――此名状し難き道化た挙動は、自分の危く失笑せむとするところであつた。
 殆んど高潮に達した好奇心を以て、自分は彼の睨んで居る龕の内部を覗いた。
 今迄|毫《がう》も気が付かなんだ、此処にも亦一個の人間が居る。――男ではない。女だ。赤縞の、然し今はただ一色《ひといろ》に穢《よご》れはてた、肩揚のある綿入を着て、グル/\巻にした髪には、よく七歳《ななつ》八歳《やつ》の女の児の用ゐる赤い塗櫛をチヨイと※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して、二十《はたち》の上を一つ二つ、頸筋は垢で真黒だが、顔は円くて色が白い…………。
 これと毫厘《がり》寸法の違はぬ女が、昨日の午過《ひるすぎ》、伯母の家の門に来て、『お頼《だん》のまうす、お頼《だん》のまうす。』と呼んだのであつた。伯母は台所に何か働いて居つたので、自分が『何家《どこ》の女客ぞ』と怪しみ乍ら取次に出ると、『腹が減つて腹が減つて一足も歩かれなエハンテ、何卒《どうか》何か……』と、いきなり手を延べた。此処へ伯母が出て来て、幾片かの鳥目を恵んでやつたが、後で自分に恁《かう》話した。――アレはお夏といふ女である。雫石《しづくいし》の旅宿なる兼平屋《かねひらや》(伯母の家の親類)で、十一二の時から下婢をして居たもの。此頃其旅宿の主人が来ての話によれば、稚い時は左程でもなかつたが、年を重ぬるに従つて段々愚かさが増して来た。此年の春早く、連合《つれあひ》に死別れたとかで独身者《ひとりもの》の法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の挙動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め/\、幾等《いくら》叱つても嚇《おど》しても二時間許り家に入らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何処を探しても見えなかつた。一月許り前になつて偶然《ひよつこり》帰つて来た。が其時はモウ本当の愚女《ばか》になつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の礼さへ云はなんだ。半年有余の間、何をして来たかは無論誰も知る人はないが、帰つた当座は二十何円とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして来たのであらう。此盛岡に来たのは、何日からだか解らぬが、此頃は毎日|彼様《ああ》して人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも『お頼《だん》のまうす、腹が減つて、』だ。モウ確然《すつかり》普通の女でなくなつた証拠には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通り紅《べに》をつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》処に寝るんですかネー。――
 此お夏は今、狭い白狐龕の中にベタリと坐つて、ポカンとした顔を入口に向けて居たのだ。余程早くから目を覚まして居たのであらう。
 中腰になつてお夏を睨めた繁は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする様に、唇を尖らして一声『フウー』と哮《いが》んだ。多分平生自分の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。
 お夏も亦何と思つたか、卒《には》かに身を動かして、斜に背《せな》を繁に向けた。そして何やら探す様であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、呀《オヤ》と思つて見て居ると、唾に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ唇へ塗りつけた。そして、チヨイト恥かしげに繁の方に振向いて見た。
 繁はビク/\と其身を動かした。
 お夏は再び口紅をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。
 繁はグツと喉を鳴らした。
 繁の気色の較々《やや》動いたのを見たのであらう、お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し気にではない。身体さへ少許《すこし》捩向けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ/\と笑つた。紅をつけ過した為に、日に燃ゆる牡丹の様な口が、顔一杯に拡がるかと許り大きく見える。
 自分は此時、全く現実といふ観念を忘れて了つて居た。宛然《さながら》、ヒマラヤ山《さん》あたりの深い深い万仭の谷の底で、巌《いはほ》と共に年を老《と》つた猿共が、千年に一度|演《や》る芝居でも行つて見て居る様な心地。
 お夏が顔の崩れる許りニタ/\/\と笑つた時、繁は三度声を出して『ウツ』と唸つた。と見るや否や、矢庭に飛びついてお夏の手を握つた。引張り出した。此時の繁の顔! 笑ふ様でもない、泣くのでもない。自分は辞《ことば》を知らぬ。
 お夏は猶ニタ/\と笑い乍ら、繁の手を曳くに任せて居る。二人は側縁《そばえん》の下まで行つて見えなくなつた。社前の広庭へ出たのである。――自分も位置を変へた。広庭の見渡される場所《ところ》へ。
 坦たる広庭の中央には、雲を凌《しの》いで立つ一株の大公孫樹があつて、今、一年中唯一度の盛装を凝《こら》して居た。葉といふ葉は皆黄金の色、暁の光の中で微動《こゆるぎ》もなく、碧々として薄《うつす》り光沢《つや》を流した大天蓋《おほぞら》に鮮かな輪廓をとつて居て、仰げば宛然《さながら》金色《こんじき》の雲を被《き》て立つ巨人の姿である。
 二人が此大公孫樹の下まで行つた時、繁は何か口疾《くちど》に囁いた。お夏は頷《うなづ》いた様である。
 忽ち極めて頓狂な調子外れな声が繁の口から出た。
『ヨシキタ、ホラ/\。』
『ソレヤマタ、ドツコイシヨ。』
とお夏が和した。二人は、手に手を放つて踊り出した。
 踊といつても、元より狂人の乱舞である。足をさらはれてお夏の倒れることもある。※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《だう》と衝き当つて二人共々重なり合ふ事もある。繁が大公孫樹の幹に打衝《ぶつつか》つて度を失ふ事もある。そして、恁《かう》いふ事のある毎に、二人は腹の底から出る様な声で笑つて/\、笑つて了へば、『ヨシキタホラ/\』とか、『ソレヤマタドツコイシヨ』とか、『キタコラサツサ』とか調子をとつて、再び真面目に踊り出すのである。
 ※[#「王+倉」、54−下−20]々《さやさや》と声あつて、神の笑《ゑま》ひの如く、天上を流れた。――朝風の動き初《そ》めたのである。と、巨人は其|被《き》て居る金色の雲を断《ちぎ》り断つて、昔ツオイスの神が身を化《け》した様な、黄金の雨を二人の上に降らせ始めた。嗚呼、嗚呼、幾千万片と数の知れぬ金地の舞の小扇が、縺《もつ》れつ解けつヒラ/\と、二人の身をも埋むる許り。或ものは又、見えざる糸に吊らるる如く、枝に返らず地に落ちず、光《つや》ある風に身を揉ませて居る。空に葉の舞、地の人の舞! 之を見るもの、上なるを高しとせざるべく、下なるを卑《ひく》しとせざるべし。黄金の葉は天上の舞を舞ふて地に落つるのだ。狂人繁と狂女お夏とは神の御庭に地上の舞を舞ふて居るのだ。
 突如、梵天《ぼんてん》の大光明が、七彩|赫灼《かくしやく》の耀《かがやき》を以て、世界|開発《かいほつ》の曙の如く、人天《にんてん》三界を照破した。先づ、雲に隠れた巨人の頭《かしら》を染め、ついで、其金色の衣を目も眩《くらめ》く許《ばかり》に彩り、軈《やが》て、普《あま》ねく地上の物又物を照し出した。朝日が山の端を離れたのである。
 見よ、見よ、踊りに踊り、舞ひに舞ふお夏と繁が顔のかがやきを。痩せこけて血色のない繁は何処へ行つた? 頸筋黒くポカンとしたお夏は何処へ行つた? 今此処に居るのはこれ、天《そら》の日の如くかがやかな顔をした、神の御庭の朝の舞に、遙か下界から撰び上げられた二人の舞人である。金色の葉がしきりなく降つて居る。金色の日光が鮮かに照して居る。其葉其日光のかがやきが二人の顔を恁《かう》染めて見せるのか? 否、然《さう》ではあるまい。恐らくは然ではあるまい。
 若し然とすると、それは一種の虚偽である。此荘厳な、金色燦然たる境地に、何で一点たりとも虚偽の陰影の潜むことが出来やう。自分は、然でないと信ずる。
 全く心の働きの一切を失つて、唯、恍として、茫として、蕩として、目前の光景に我を忘れて居た自分が、此時僅かに胸の底の底で、あるかなきかの声で囁やくを得たのは、唯次の一語であつた。――曰く、『狂者は天の寵児だと、プラトーンが謂つた。』と。
 お夏が声を張り上げて歌つた。
『惚れたーアー惚れたーのーオ、若松様アよーオー、ハア惚れたよーツ。』
『ハア惚れた惚れた惚れたよやさー。』
と繁が次いだ。二人の天の寵児が測り難き全
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