端《つまさき》の処に、彼《か》の穢《きた》ない女乞食が※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《だう》と許り倒れて居た。自分と並んで居る一団の少年は、口々に、声を限りに、『あれヤー、お夏だ、お夏だツ、狂女《ばかをなご》だツ。』と叫んだ。
『お夏』と呼ばれた彼の女乞食が、或る聴取り難い言葉を一声叫んで、棺に取縋つたのだ。そして、彼の担いで居る男に蹴倒されたのだ、この非常なる活劇は、無論真の一転瞬の間に演ぜられた。
 噫《ああ》、噫、この『お夏』といふ名も亦、決して初対面の名ではなかつた。矢張自分の記憶の底に沈んで居る石塊《いしころ》の一つの名であつた。そして此名も、たしか或る狂女《きやうじよ》の名であつた様だ。
 以上二つの旧知の名が、端なく我が頭脳《あたま》の中でカチリと相触れた時、其一刹那、或る荘厳な、金色燦然たる一光景が、電光の如く湧いて自分の両眼に立ち塞がつた。

 自分は今、茲に霎時《しばらく》、五|年前《ねんぜん》の昔に立返らねばならぬ。時は神無月末の或る朝まだき、処は矢張此の新山祠畔の伯母が家。
 史学研究の大望を起して、上京を思立つた自分は、父母の家を辞した日の夕方
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