路を逸《そ》れて、かの有名な田中の石地蔵の背《せな》を星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生《ひごろ》の癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ/\と引返して来ると、途中で外套を着、頭巾を目深に被《かぶ》つた一人の男に逢つた。然し別段気にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人|鼎足的《ていそくてき》関係のあつた花郷《かきやう》を訪ねて見やうと、少しく足を早めた。四家町《よつやちやう》は寂然《ひつそり》として、唯一軒理髪床の硝子戸に燈光《あかり》が射し、中から話声が洩れたので、此処も人間の世界だなと気の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。断つて置く、此町の隣が密淫売町《ぢごくまち》の大工町《だいくちやう》で、芸者町なる本町《ほんちやう》通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舎の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相応に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火《あかり》が射して居る。ヒヨウ[#「ヒヨウ」に傍点]と口笛を吹くと、矢張ヒヨウ[#「ヒヨウ」に傍
前へ 次へ
全52ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング