、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶気《ものうげ》な、気の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。
 澄み切つた鋼鉄色《かうてついろ》の天蓋を被《かづ》いて、寂然《じやくねん》と静まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷徨《うろつ》く楽みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で帰つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の為めに、昔の楽みの半分は屹度失くなつたであらう。自分は茲《ここ》で、古い記憶を呼び覚して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事の蟠《わだかま》るありて、今往時を切実に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷徨《うろつ》いて居た際に起つた一奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三戸町《さんのへちやう》、三戸町から赤川、此赤川から桜山の大鳥居へ一文字に、畷《なはて》といふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境《むにんきやう》を一往返するを敢て労としなかつた。のみならず、一寸
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