を鳴らした。
 繁の気色の較々《やや》動いたのを見たのであらう、お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し気にではない。身体さへ少許《すこし》捩向けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ/\と笑つた。紅をつけ過した為に、日に燃ゆる牡丹の様な口が、顔一杯に拡がるかと許り大きく見える。
 自分は此時、全く現実といふ観念を忘れて了つて居た。宛然《さながら》、ヒマラヤ山《さん》あたりの深い深い万仭の谷の底で、巌《いはほ》と共に年を老《と》つた猿共が、千年に一度|演《や》る芝居でも行つて見て居る様な心地。
 お夏が顔の崩れる許りニタ/\/\と笑つた時、繁は三度声を出して『ウツ』と唸つた。と見るや否や、矢庭に飛びついてお夏の手を握つた。引張り出した。此時の繁の顔! 笑ふ様でもない、泣くのでもない。自分は辞《ことば》を知らぬ。
 お夏は猶ニタ/\と笑い乍ら、繁の手を曳くに任せて居る。二人は側縁《そばえん》の下まで行つて見えなくなつた。社前の広庭へ出たのである。――自分も位置を変へた。広庭の見渡される場所《ところ》へ。
 坦たる広庭の中央には、雲を凌《しの》いで立つ一株の大公孫樹があつて、今、一年中唯一度の盛装を凝《こら》して居た。葉といふ葉は皆黄金の色、暁の光の中で微動《こゆるぎ》もなく、碧々として薄《うつす》り光沢《つや》を流した大天蓋《おほぞら》に鮮かな輪廓をとつて居て、仰げば宛然《さながら》金色《こんじき》の雲を被《き》て立つ巨人の姿である。
 二人が此大公孫樹の下まで行つた時、繁は何か口疾《くちど》に囁いた。お夏は頷《うなづ》いた様である。
 忽ち極めて頓狂な調子外れな声が繁の口から出た。
『ヨシキタ、ホラ/\。』
『ソレヤマタ、ドツコイシヨ。』
とお夏が和した。二人は、手に手を放つて踊り出した。
 踊といつても、元より狂人の乱舞である。足をさらはれてお夏の倒れることもある。※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《だう》と衝き当つて二人共々重なり合ふ事もある。繁が大公孫樹の幹に打衝《ぶつつか》つて度を失ふ事もある。そして、恁《かう》いふ事のある毎に、二人は腹の底から出る様な声で笑つて/\、笑つて了へば、『ヨシキタホラ/\』とか、『ソレヤマタドツコイシヨ』とか、『キタコラサツサ』とか調子をとつて、再び真面目に踊り出すのである。
 ※[#「王+倉」
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