お夏といふ女である。雫石《しづくいし》の旅宿なる兼平屋《かねひらや》(伯母の家の親類)で、十一二の時から下婢をして居たもの。此頃其旅宿の主人が来ての話によれば、稚い時は左程でもなかつたが、年を重ぬるに従つて段々愚かさが増して来た。此年の春早く、連合《つれあひ》に死別れたとかで独身者《ひとりもの》の法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の挙動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め/\、幾等《いくら》叱つても嚇《おど》しても二時間許り家に入らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何処を探しても見えなかつた。一月許り前になつて偶然《ひよつこり》帰つて来た。が其時はモウ本当の愚女《ばか》になつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の礼さへ云はなんだ。半年有余の間、何をして来たかは無論誰も知る人はないが、帰つた当座は二十何円とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして来たのであらう。此盛岡に来たのは、何日からだか解らぬが、此頃は毎日|彼様《ああ》して人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも『お頼《だん》のまうす、腹が減つて、』だ。モウ確然《すつかり》普通の女でなくなつた証拠には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通り紅《べに》をつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》処に寝るんですかネー。――
 此お夏は今、狭い白狐龕の中にベタリと坐つて、ポカンとした顔を入口に向けて居たのだ。余程早くから目を覚まして居たのであらう。
 中腰になつてお夏を睨めた繁は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする様に、唇を尖らして一声『フウー』と哮《いが》んだ。多分平生自分の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。
 お夏も亦何と思つたか、卒《には》かに身を動かして、斜に背《せな》を繁に向けた。そして何やら探す様であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、呀《オヤ》と思つて見て居ると、唾に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ唇へ塗りつけた。そして、チヨイト恥かしげに繁の方に振向いて見た。
 繁はビク/\と其身を動かした。
 お夏は再び口紅をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。
 繁はグツと喉
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