れ生きた教育の儀表となつて居る。自白すると自分の如きも昔二十幾人の教師に教を享けたるに不拘、今猶しみ/″\と思出して有難さに涙をこぼすのは、唯此鹿川先生一人であるのだ。今日の訪問の意味は、云はずと解つて居る。
自分の問に対して、三秒か五秒の間答がなかつたが、霎時《しばらく》して、
『イヤー立花さんでアごあせんか? これや怎《ど》うもお久振でごあんした喃《なあ》。』
と聞覚えのある、錆びた/\声が応じた。ああ然だ、この声の主を忘れてはならぬ。鹿川先生と同じく、此校創立以来既に三十年近く勤続して居る正直者、歩振《あるきぶり》の可笑《をかしい》ところから附けられた、『家鴨《あひる》』といふ綽名《あだな》をも矢張三十年近く呼ばれて居る阿部老小使である。
『今日はハア土曜日でごあんすから、先生方は皆《みんな》お帰りになりあんしたでア。』
土曜日? おゝ然《さう》であつた。学校教員は誰しも土曜日の来るを指折り数へて待たぬものがない。自分も其教員の一人であり、且つ又、この一週七曜の制は、黄道十二支と共に、五千年の昔、偉大なるアツケデヤ人の創めたもので、其後希臘人は此制をアレキサンデリヤから輸入し、羅馬人は西暦紀元の頃に八日一週の旧制を捨てて此制を採用し、ひいて今日の世界に到つたものである、といふ事をさへ、克く研究して知つて居る癖に、怎うして今日は土曜日だといふ事を忘却して居たものであらう、誠に頓馬な話である。或は自分は、滞留三日にして早く既に盛岡人の呑気な気性の感化を蒙つたのかも知れない。
此小使室の土間に、煉瓦で築き上げた大きな竈《かまど》があつて、其上に頗る大きな湯釜が、昔の儘に湯を沸《たぎ》らし居る。自分は此学校の一年生の冬、百二十人の級友に唯二つあてがはれた暖炉《ストーブ》には、力の弱いところから近づく事も出来ないで、よく此竈の前へ来て昼食のパンを噛《かぢ》つた事を思出した。そして、此処を立去つた。
門を出て、昔十分休毎によく藻外と花郷と三人で楽しく語り合つた事のある、玄関の上の大露台《だいバルコニイ》を振仰いだ。と、恰度此時、女乞食の周匝《めぐり》に立つて居た児供《こども》の一人が、頓狂な声を張上げて叫んだ。
『アレ/\、がんこ[#「がんこ」に傍点]ア来た、がんこ[#「がんこ」に傍点]ア来た。』がんこ[#「がんこ」に傍点]とは盛岡地方で『葬列』といふ事である。此
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