然《さう》でないと信ずる。
 全く心の働きの一切を失つて、唯、恍として、茫として、蕩として、目前の光景に我を忘れて居た自分が、此時僅かに胸の底の底で、あるかなきかの聲で囁やくを得たのは、唯次の一語であつた。――曰く、『狂者は天の寵兒だと、プラトーンが謂つた。』と。
 お夏が聲を張り上げて歌つた。
『惚れたーアー惚れたーのーオ、若松樣アよーオー、ハア惚れたよーッ。』
『ハア惚れた惚れた惚れたよやさー。』
と繁が次いだ。二人の天の寵兒が測《はか》り難き全智の天に謝する衷心の祈祷は、實に此の外に無いのであらう。

 電光の如く湧いて自分の兩眼に立ち塞がつた光景は、宛然《さながら》幾千萬片の黄金の葉が、さ[#「さ」に傍点]といふ音もなく一時に散り果てたかの樣に、一瞬にして消えた。が此一瞬は、自分にとつて極めて大切なる一瞬であつた。自分は此一瞬に、目前に起つて居る出來事の一切《すべて》を、よく/\解釋することが出來た。
 疾風の如く棺に取り縋つたお夏が、蹴られて※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]と倒れた時、懷《ふところ》の赤兒が『ギャッ』と許り烈しい悲鳴を上げた。そして其悲鳴が唯一聲
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