》、此赤川から櫻山の大鳥居へ一文字に、畷《なはて》といふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境を一往返するを敢て勞としなかつた。のみならず、一寸路を逸《そ》れて、かの有名な田中の石地藏の背を星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生《ひごろ》の癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ/\と引返して來ると、途中で外套を著、頭巾を目深に被つた一人の男に逢つた。然し別段氣にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人|鼎足的《ていそくてき》關係のあつた花郷を訪ねて見ようと、少しく足を早めた。四家町は寂然《ひつそり》として、唯一軒理髮床の硝子戸に燈光《あかり》が射し、中から話聲が洩れたので、此處も人間の世界だなと氣の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。斷つて置く、此町の隣が密淫賣町《ぢごくまち》の大工町で、藝者町なる本町通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舍の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相應に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火《あかり》が射して居る。
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