数多くあつたけれど、この一室中の人許りは誰一人微傷だもしなかつたと云ふ。汽車に乗つたから汽車衝突の話をするとは誠にうまい事と自分はひそかに考へた、そして又、衝突なり雪埋なり、何かしらこんどの旅行記を賑はすべき事件が、釧路まで行くうちに起つて呉れゝばよいがと、人に知らされぬ危険な事を思ふ。
 午前十一時四十分。車は動き出して、車窓の外に立つて居た日報社の人々が見えなくなつた。雪が降り出して居る。風さへ吹き出したのか、それとも汽車が風を起したのか、声なき鵞毛の幾千万片、卍巴と乱れ狂つて冷たい窓硝子を打つ。――其硝子一重の外を知らぬ気に、車内は暖炉《ストーブ》勢ひよく燃えて、冬の旅とは思へぬ暖かさ。東泉先生は其肥大の躯を白毛布の上にドシリと下して、心安げに本を見始める。先生に侍して、雪に埋れた北海道を横断する自分は宛然《さながら》腰巾着の如く、痩せて小さい躯を其横に据ゑて、衣嚢《かくし》から新聞を取出した。サテ太平無事な天下ではある。蔵逓両相が挂冠したといふ外に、広い世の中何一つ面白い事がない。
 窓越しに見る雪の海、深碧の面が際限もなく皺立つて、車輛を洗ふかと許り岸辺の岩に砕くる波の徂徠《
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