むり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]に痛えがす? お由|殿《どん》、寢だら可《え》がべす。』と、一人の顏のしやくんだ嬶が言つた。
『何有《なあに》!』
 恁う言つて、お由は腰に支《か》つた右手を延べて、燃え去つた爐の柴を燻べる。髮のおどろに亂れかゝつた、その赤黒い大きい顏には、痛みを怺へる苦痛が刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆追出して遣つた惡黨女ながら、養子の金作が肺病で死んで以來、口は減らないが、何處となく衰へが見える。亂れた髮には白いのさへ幾筋か交つた。
『眞箇《ほんと》だぞえ。寢れば癒るだあに。』とお申婆も口を添へる。
『何有《なあに》!』とお由は又言つた。そして、先刻から三度目の同じ辯疏《いひわけ》を、同じ樣な詰らな相な口調で附け加へた、『晩方に庭の臺木《どぎ》さ打倒《ぶんのめ》つて撲《ぶ》つたつけア、腰ア痛くてせえ。』
『少し揉んで遣《や》べえが!』とお申《さる》。
『何有!』
『ワッハハ。』氣懈《けだる》い笑ひ方をして、松太郎は顏を上げた。
『ハッハハ。醉へエばアア寢たくなアるウ、(と唄ひさして、)寢れば、それから何だつけ? ※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、何だつけ? ハッハハ。あしきを攘うて救けたまへだ。ハッハハ。』と又グラリとする。
『先生樣ア醉つたなツす。』と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。
『眞箇《ほんと》にせえ。歸るべえが?』と、その隣りのお申婆へ。
『まだ可がべえどら。』と、お由が呟く樣に口を入れた。
『こら、家の嬶、お前は何故、今夜は酒を飮まないのだ。』と松太郎は又顏を上げた。舌もよくは廻らぬ。
『フム。』
『ハッハハ。さ、私が踊ろか。否、醉つた、すつかり醉つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハッハハ。』
と、坐つた儘で妙な手附。
 ドヤ/\と四五人の跫音が戸外に近づいて來る。顏のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。
『また隔離所さ誰か遣られたな。』
『誰だべえ?』
『お常ツ子だべえな。』と、お申婆が聲を潜めた。『先刻《さきた》、俺ア來る時、巡査ア彼家《あすこ》へ行つたけどら。今日檢査の時ア裏の小屋さ隱れたつけア、誰か知らせたべえな。昨日から顏色《つらいろ》ア惡くてらけもの。』
『そんでヤハアお常ツ子も罹つたアな。』と囁いて、一同は密と松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。
 松太郎は、首を垂れて、涎を流して、何か『ウウ』と唸つてゐる。
 跫音は遠く消えた。
『歸るべえどら。』と、顏のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。
 それから一時間許り經つた。
 松太郎はポカリと眼を覺ました。寒い。爐の火が消えかゝつてゐる。ブルッと身顫ひして體を半分擡げかけると、目の前にお由の大きな體が横たはつてゐる。眠つたのか、小動《こゆる》ぎもせぬ。右の頬片を板敷にベタリと附けて、其顏を爐に向けた。幽かな火光《あかり》が怖しくもチラ/\とそれを照らした。
 別の寒さが松太郎の體中に傳はつた。見よ、お由の顏! 齒を喰縛つて、眼を堅く閉ぢて、ピリ/\と眼尻の筋肉が攣痙《ひきつ》けてゐる。髮は亂れたまゝ、衣服《きもの》も披《はだ》かつたまゝ……。
 氷の樣な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ、渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜惡に面接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の淺猿《あさま》しさ!
 松太郎はお由の病苦を知らぬ。
『ウ、ウ、ウ。』
とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、又ゴロリと横になつて、眼を瞑つて、息を殺した。
 お由は二三度唸つて立ち上つた氣勢《けはひ》。下腹が痺れて、便氣の塞逼に堪へぬのだ。昵と松太郎の寢姿を見乍ら、大儀相に枕を廻つて、下駄を穿いたが、その寢姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐愍の情を起させた。俺が居なくなつたら奈何して飯を食ふだらう? と思ふと、何がなしに理由のない憤怒が心を突く。
『えゝ此|嘘吐者《うそつき》、天理も糞も……』
 これだけを、お由は苦し氣に呶鳴つた。そして裏口から出て行つた。
 渠はガバ跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に驅け込んで、布團を引出すより早く、其中に潜り込んだ。
 間もなくお由は歸つて來た。眠つてゐた筈の松太郎が其處に見えない。兩手を腹に支つて、顏を強く顰めて、お由は棒の樣に突つ立つたが、出掛けに言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒氣が肉體の苦痛と共に發した。
『畜生奴!』と先づ胴間聲が突つ走つた。『畜生奴! 狐! 嘘吐者《うそつき》! 天理坊主! よく聽け、コレア、俺ア赤痢に取り附かれたぞ。畜生奴! 嘘吐者! 畜生奴! ウン……』
 ドタリとお由が倒《のめ》つた音。
 寢床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした樣に、ピクとも動かぬ。あらゆる手頼《たより》の綱が一度に切れて了つた樣で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、獨りぼつちの塊が石塊の如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑つた兩眼からは、涙が瀧の如く溢れた。瀧の如くとは這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる、抑へようともせぬ。噛りついた布團の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。………………



底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
   1970(昭和45)年11月20日発行
※底本の、「掲げられなかつた、松太郎は」は「掲げられなかつた。松太郎は」に、「酷《ひど》く弱い頭を腦まされて」は「酷《ひど》く弱い頭を惱まされて」に、「小動《こゆるぎ》ぎもせぬ。」は「小動《こゆる》ぎもせぬ。」に、それぞれあらためました。
※底本の「『晩方に庭の」の前の改行は、とりました。
※疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2003年10月23日作成
青空文庫ファイル:
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