づ/\》と入つて來る松太郎を見ると、生柴を大爐に折燻べてフウ/\吹いてゐたお由は、突然、
『お前が、俺許《おらどこ》さ泊《と》めて呉《く》ろづな?』と、無遠慮に叱る樣に言ふ。
『左樣さ。私《わし》はな……』と、松太郎は少し狼狽《うろた》へて、諄々《くど/\》初對面の挨拶をすると、
『何有《なあに》ハア、月々三兩せえ出せば、死《くたば》るまでも置いて遣《や》べえどら。』
 移轉祝の積りで、重兵衞が酒を五合買つて來た。二人はお由にも天理教に入ることを勸めた。
『何有《なあに》ハア、俺みたいな惡黨女にや神樣も佛樣も死《くたば》る時で無《え》えば用ア無えどもな。何だべえせえ。自分の居《を》ツ家《とこ》が然《そ》でなかつたら具合が惡かんべえが? 然だらハア、俺ア酒え飮むのさ邪魔さねえば、何方《どつち》でも可いどら。』
と、お由は鐵漿《おはぐろ》の剥げた穢ない齒を露出《むきだ》にして、ワッハヽヽと男の樣に笑つたものだ。鍛冶屋の門と此の家の門に、『神道天理教會』と書いた、丈五寸許りの、硝子を嵌めた表札が掲げられた。
 二三日經つてからの事、爲樣事なしの松太郎はブラリと宿を出て、其處此處に赤い百合の花の咲いた畑徑《はたけみち》を、唯一人東山へ登つて見た。何の風情もない、饅頭笠を伏せた樣な芝山で、逶※[#「しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《うねくね》した徑《みち》が嶺に盡きると、太い杉の樹が矗々《すく/\》と、八九本立つてゐて、二間四方の荒れ果てた愛宕神社の祠《ほこら》。
 その祠の階段に腰を掛けると、此處よりは少し低目の、同じ形の西山に眞面《まとも》に對合つた。間が淺い凹地になつて、浮世の廢道と謂つた樣な、塵白く、石多い、通り少ない往還が、其底を一直線に貫いてゐる。兩つの丘陵は中腹から耕されて、夷《なだら》かな勾配を作つた畑が家々の裏口まで迫つた。村が一目に瞰下される。
 その往還にも、昔は、電信柱が行儀よく並んで、毎日午近くなると、調子面白い喇叭の音を澄んだ山國の空氣に響かせて、赤く黄ろく塗った圓太郎馬車が、南から北から、勇しくこの村に躍り込んだものだ。その喇叭の音は、二十年來|礑《はた》と聞こえずなつた。隣村に停車場が出來てから通りが絶えて、電信柱さへ何日しか取除かれたので。
 その頃は又、村に相應な旅籠屋も三四軒あり、俥も十輛近くあつた。荷馬車と駄馬は家毎のやうに置かれ、畑仕事は女の内職の樣に閑却されて、旅人對手の渡世だけに收入も多く人氣も立つてゐた。夏になれば氷屋の店も張られた。――それもこれも今は纔かに、老人達の追憶談に殘つて、村は年毎に、宛然《さながら》藁火の消えてゆく樣に衰へた。生業は奪はれ、税金は高くなり、諸式は騰り、増えるのは子供許り。唯一輛殘つてゐた俥の持主は五年前に死んで曳く人なく、轅の折れた其俥は、遂この頃まで其家の裏井戸の側で見懸けられたものだ。旅籠屋であつた大きい二階建の、その二階の格子が、折れたり歪んだり、晝でも鼠が其處に遊んでゐる。今では三國屋といふ木賃が唯一軒。
 松太郎は其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事は知らぬ。血の氣の薄い、張合の無い、氣病《きやみ》の後の樣な弛んだ顏に眩い午後の日を受けて、物珍し相にこの村を瞰下してゐると、不圖、生れ村の父親の建てた會堂の丘から、その村を見渡した時の心地が胸に浮んだ。
 取り留めのない空想が一圖に湧いた。愚さの故でもあらう、汗ばんだ、生き甲斐のない顏が少し色ばんで、鈍い眼も輝いて來た。渠は、自分一人の力でこの村を教化し盡した勝利の曉の今迄遂ぞ夢にだに見なかつた大いなる歡喜を心に描き出した。
「會堂が那處《あそこ》に建つ!」と、屹と西山の嶺に瞳を据ゑる。
「然うだ、那處に建つ!」恁う思つただけで、松太郎の目には、その、純白な、繪に見る城の樣な、數知れぬ窓のある巍然たる大殿堂が鮮かに浮んで來た。その高い、高い天蓋《やね》の尖端、それに、朝日が最初の光を投げ、夕日が最後の光を懸ける……。
 渠は又、近所の誰彼、見知り越しの少年共を、自分が生村の會堂で育てられた如く、育てて、教へて……と考へて來て、周圍に人無きを幸ひ、其等に對する時の嚴かな態度をして見た。
「抑々天理教といふものはな――」
と、自分の教へられた支部長の聲色を使つて、眼の前の石塊を睨んだ。
「すべて、私念《わたくし》といふ陋劣《さもし》い心があればこそ、人間は種々の惡き企畫《たくらみ》を起すものぢや。罪惡の源は私念、私念あつての此世の亂れぢや。可いかな? その陋劣《さもし》い心を人間の胸から攘ひ淨めて、富めるも賤きも、眞に四民平等の樂天地を作る。それが此教の第一の目的ぢや。解つたぞな?」
 恁う言ひ乍ら、渠はその目を移して西山の嶺を見、また、凹地の底の村を瞰下した。古の尊き使徒が異教人の國を望んだ時の心地だ。壓潰した樣に二列に列んだ茅葺の屋根、其處からは※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の聲が間を置いて聞えて來る。
 習《そよ》との風も無い。最中過《さなかすぎ》の八月の日光が躍るが如く溢れ渡つた。氣が附くと、畑々には人影が見えぬ。丁度、盆の十四日であつた。
 松太郎は何がなしに生き甲斐がある樣な氣がして、深く深く、杉の樹脂《やに》の香る空氣を吸つた。が、霎時《しばらく》經つと眩い光に眼が疲れてか、氣が少し焦立つて來た。
「今に見ろ! 今に見ろ!」
 這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事を出任せに口走つて見て、渠はヒョクリと立ち上り、杉の根方を彼方此方、態と興奮した樣な足調《あしどり》で歩き出した。と、地面に匐つた太い木の根に躓いて、其|機會《はずみ》にまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと斷れた。チョッと舌皷して蹲踞《しやが》んだが、幻想は迹もない。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸くとそれをすげた。そしてトボ/\と山を下つた。
 穗の出初めた粟畑がある。ガサ/\と葉が鳴つて、
『先生樣ア!』
と、若々しい娘の聲が、突然、調戯《からか》ふ樣な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑と足を留めて、キョロ/\周圍を見廻した。誰も見えない。粟の穗がフイと飛んで來て、胸に當つた。
『誰だい?』
と、渠は少し氣味の惡い樣に呼んで見た。カサとの音もせぬ。
『誰だい?』
 二度呼んでも答が無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、
『ホホヽヽ。』
と澄んだ笑聲がして、白手拭を被つた小娘の顏が、二三間隔つた粟の上に現れた。
『何だ、お常ツ子かい!』
『ホホヽヽ。』と又笑つて、『先生樣ア、お前樣、狐踊踊るづア、今夜《こんにや》俺《おら》と一緒に踊らねえすか? 今夜《こんにや》から盆だす。』
『フフヽヽ。』と松太郎は笑つた。そして急しく周圍を見廻した。
『なツす、先生樣ア。』とお常は飽迄曇りのないクリクリした眼で調戯《からか》つてゐる。十五六の、色の黒い、晴れやかな邪氣無《あどけな》い小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通る度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調戯ふ。落花生の殼を投げることもある。
 渠は不圖、別な、全く別な、或る新しい生き甲斐のある世界を、お常のクリ/\した眼の中に發見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙攣《ひきつ》つた樣な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。
 この事あつて以來、松太郎は妙に氣がそはついて來て、暇さへあれば、ブラリと懷手をして畑徑《はたけみち》を歩く樣になつた。わが歩いてる徑の彼方から白手拭が見える。と、渠は既うホク/\嬉しくてならぬ。知らん振りをして行くと、娘共は屹度何か調戯《からか》つて行き過ぎる。
『フフヽヽ。』
と、恁うまア、自分の威嚴を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に歸ると例《いつ》になく食慾が進む。
 近所の人々とも親しみがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何處かへ振舞酒にでも招《よ》ばれると、こつそり[#「こつそり」に傍点]と娘を連れ込む事もある。娘の歸つた後、一人ニヤニヤと厭な笑ひ方をして、爐端に胡座をかいてると、屹度、お由がグデン/\に醉拂つて、對手なしに惡言《あくたい》を吐き乍ら歸つて來る。
『何だ此畜生奴《こんちくしやうめ》、奴《うぬ》ア何故《なんしや》此家に居る? ウン此狐奴、何だ? 寢ろ? カラ小癪な!默れ、この野郎、默れ默れ、默らねえか? 此畜生奴、乞食《ほいど》、癩病《どす》、天理坊主! 早速《じらから》と出て行け、此畜生奴!』
 突然、這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事を口汚く罵つて、お由はドタリと上り框の板敷に倒れる。
『まア、まア。』
と言つた調子で、松太郎は、繼母でも遇《あしら》ふ樣に、寢床の中擦り込んで、布團をかけてやる。渠は何日しか此女を扱ふ呼吸《こつ》を知つた。惡口は幾何吐いても、別に抗爭《てむか》ふ事はしないのだ。お由は寢床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に呶鳴り散らして、それが止むと、太平な鼾をかく。翌朝になれば平然《けろり》としたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。
 此家の門と鍛冶屋の門の外《ほか》には、「神道天理教會」の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時偶《ときたま》近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説教もする、それが又、奈何でも可いと言つた調子だ。或時、痩馬喰《やせばくらふ》の嬶が、子供が腹を病んでるからと言つて、御供水を貰ひに來た。三四日經つと、麥煎餅を買つて御禮に來た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。
 二百十日が來ると、馬のある家では、泊り懸けで馬糧の萩を刈りに山へ行く。其若者が一人、山で病附いて來て醫者にかゝると、赤痢だと言ふので、隔離病舍に收容された。さらでだに、岩手縣の山中に數ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出來事は村中の顏を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌はしき疫が全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女《いたこ》を信じ狐を信ずる住民の迷信を煽り立てた。御供水は酒屋の酒の樣に需要が多くなつた。一月餘の間に、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて來た。
 が、漸々《だん/\》病勢が猖獗になるに從《つ》れて、渠自身も餘り丈夫な體ではなし、流石に不安を感ぜぬ譯に行かなくなつた。其時思ひ出したのは、五六年前――或は渠が生れ村の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒の廣告の中に、傳染病豫防の效能があると書いてあつたのを讀んだ事だ。渠は恁ういふ事を云ひ出した。『天理樣は葡萄がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病氣なんかするものぢやないがな。』
 流石に巡査の目を憚つて、日が暮れるのを待つて御供水を貰ひに來る嬶共は、有乎無乎《なけなし》の小袋を引敝《ひつぱた》いて葡萄酒を買つて來る樣になつた。松太郎はそれを犧卓《にへづくゑ》に供へて、祈祷をし、御神樂を踊つて、その葡萄酒を勿體らしく御供水に割つて、持たして歸す。殘つたのは自分が飮むのだ。お由の家の臺所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も竝んだ。


 奈何したのか、鍛冶屋の響も今夜は例《いつ》になく早く止んだ。高く流るゝ天の河の下に、村は死骸の樣に默してゐる。今し方、提灯が一つ、フラ/\と人魂の樣に、役場と覺しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。
 お由の家の大爐には、チロリ/\と焚火が燃えて、居並ぶ種々の顏を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遲れて來たお申婆《さるばばあ》もゐた。
 祈祷も御神樂も濟んだ。松太郎は、トロリと醉つて了つた、だらしなく横座に胡坐をかいてゐる。髮の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破茶碗などが四邊《あたり》に散亂《ちらば》つてゐる。『其※[#「麻かん
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