|狐奴《きつねめ》、何だ? 寝ろ? カラ小癪な! 黙れ、この野郎。黙れ黙れ、黙らねえか? 此畜生奴、乞食《ほいど》、癩病《どす》、天理坊主! 早速《しらから》と出て行け、此畜生奴!』
 突然《いきなり》、這※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を口汚く罵つて、お由はドタリと上框《あがりかまち》の板敷に倒れる。
『マア、マア。』
と言つた調子で、松太郎は、継母《ままはは》でも遇《あしら》ふ様に、寝床の中に引擦り込んで、布団をかけてやる。渠は何日《いつ》しか此女を扱ふ呼吸《こつ》を知つた。悪口《あくたい》は幾何《いくら》吐《つ》いても、別に抗争《てむか》ふ事はしないのだ。お由は寝床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に怒鳴り散らして、それが息《や》むと、太平《たいへい》な鼾《いびき》をかく。翌朝になれば平然《けろり》としたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。
 此家の門と鍛冶屋の門の外には、『神道天理教会』の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時偶《ときたま》近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説教《はなし》もする。それが又、奈何《どう》でも可いと言つた調子だ。或時、痩馬喰《やせばくらう》の嬶《かかあ》が、小供が腹を病んでるからと言つて、御供水《おそなへみづ》を貰ひに来た。三四日経つと、麦煎餅を買つて御礼に来た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。
 二百十日が来ると、馬のある家では、泊懸《とまりがけ》で馬糧《ばれう》の萩を刈りに山へ行く。その若者が一人、山で病付《やみつ》いて来て医師《いしや》にかかると、赤痢だと言ふので、隔離病舎に収容された。さらでだに、岩手県の山中に数ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出来事は村中の顔を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌《いま》はしき疫《やまひ》が全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女《いたこ》を信じ狐を信ずる住民《ひとびと》の迷信を煽《あふ》り立てた。御供水《おそなへみづ》は酒屋の酒の様に需要が多くなつた。一月余の間《うち》に、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて来た。
 が、漸々《だんだん》病勢が猖獗《さかん》になるに従《つ》れて、渠自身も余り丈夫な体ではなし、流石に不安を感ぜぬ訳に行かなくなつた。其時思出したのは、五六年前――或は渠が生村《うまれむら》の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒《かうざんぶどうしゆ》の広告の中に、伝染病予防の効能があると書いてあつたのを読んだ事だ。渠は恁ういふ事を云出した。『天理様は葡萄酒がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病気なんかするものぢやないがな。』
 流石に巡査の目を憚《はばか》つて、日が暮れるのを待つて御供水《おそなへみづ》を貰ひに来る嬶共《かかあども》は、有乎無乎《なけなし》の小袋を引敝《ひつぱた》いて葡萄酒を買つて来る様になつた。松太郎はそれを犠卓《にへづくゑ》に供へて、祈祷をし、御神楽を踊つて、その幾滴を勿体らしく御供水に割つて、持たして帰す。残つたのは自分が飲むのだ。お由の家の台所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も並んだ。


 奈何《どう》したのか、鍛冶屋の音響《ひびき》も今夜は例《いつ》になく早く止んだ。高く流るる天の河の下に、村は死骸の様に黙してゐる。今し方、提灯が一つ、フラフラと人魂の様に、役場と覚しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。
 お由の家の大炉には、チロリチロリと焚火が燃えて、居並ぶ種々の顔を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遅れて来たお申婆《さるばばあ》も居た。
 祈祷も御神楽も済んだ。松太郎はトロリと酔つて了つて、だらしなく横座《よこざ》に胡坐《あぐら》をかいてゐる。髪の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破茶碗《かけぢやわん》などが四辺《あたり》に散乱《ちらば》つてゐる。『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に痛えがす? お由殿《よしどな》、寝だら可《え》がべす。』
と、一人の顔のしやくんだ嬶が言つた。
『何有《なあに》!』
 恁《か》う言つて、お由は腰に支《か》つた右手を延べて、燃え去つた炉の柴を燻《く》べる。髪のおどろに乱れかかつた、その赤黒い大きい顔には、痛みを怺《こら》へる苦痛《くるしみ》が刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆|追出《おんだ》して遣つた悪党女ながら、養子の金作が肺病で死んで以来、口は減らないが、何処となく衰へが見える。乱れた髪には白いのさへ幾筋か交つた。
『真箇《ほんと》だぞえ。寝れば癒るだあに。』とお申婆も口を添へる。
『何有《なあに》!』とお由は又言つた。そして、先刻《さつき》から三度目の同じ弁疏《いひわけ》を、同じ様な詰らな相な口調で付加へた、『晩方に庭の台木《どぎ》さ打倒《ぶんのめ》つて撲《ぶ》つたつけア、腰ア痛くてせえ。』
『少し揉んで遣べえが』とお申《さる》。
『何有《なあに》!』
『ワツハハ。』懶《けだる》い笑方をして、松太郎は顔を上げた。
『ハツハハ。酔へエばアア寝たくなアるウ、(と唄ひさして、)寝れば、それから何だつけ? ※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、何だつけ? ハツハハ。あしきを攘《はら》うて救けたまへだ。ハツハハ。』と、再《また》グラリとする。
『先生様ア酔つたなツす。』と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。
『真箇《ほんと》にせえ。帰《けえ》るべえが?』と、その又隣りのお申婆《おさるばあ》へ。
『まだ可《え》がべえどら。』と、お由が呟く様に口を入れた。
『こら、家《うち》の嬶、お前は何故、今夜は酒を飲まないのだ。』と松太郎は再《また》顔を上げた。舌もよくは廻らぬ。
『フム。』
『ハツハハ。さ、私《わし》が踊ろか。否《いいや》、酔つた、すつかり酔つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハツハハ。』と、坐つた儘で妙な手付。
 ドヤドヤと四五人の跫音が戸外《そと》に近いて来る。顔のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。
『また隔離所さ誰か遣られるな。』
『誰だべえ?』
『お常ツ子だべえな。』と、お申婆が声を潜めた。『先刻《さきた》、俺ア来る時《どき》、巡査ア彼家《あすこ》へ行つたけどら。今日検査の時ア裏の小屋さ隠れたつけア、誰か知らせたべえな。昨日《きのな》から顔色《つらいろ》ア悪くてらけもの。』
『そんでヤハアお常ツ子も罹《かか》つたアな。』と囁いて、一同《みんな》は密《そつ》と松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。
 松太郎は、首を垂れて、涎《よだれ》を流して、何か『ウウ』と唸つてゐる。
 跫音は遠く消えた。
『帰《けえ》るべえどら。』と、顔のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。
 それから一時間許り経つた。
 松太郎はポカリと眼を覚ました。寒い。炉の火が消えかかつてゐる。ブルツと身顫《みぶる》ひして体を半分|擡《もた》げかけると、目の前にお由の大きな体が横たはつてゐる。眠つたのか、小動《こゆる》ぎもせぬ。右の頬片《ほつぺた》を板敷にベタリと付けて、其顔を炉に向けた。幽《かす》かな火光《あかり》が怖しくもチラチラとそれを照らした。
 別の寒さが松太郎の体中に伝はつた。見よ、お由の顔! 歯を喰絞つて、眼を堅く閉ぢて、ピリピリと眼尻の筋肉《にく》が痙攣《ひきつ》けてゐる。髪は乱れたまま、衣服《きもの》も披《はだ》かつたまま……。
 氷の様な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ。渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜悪《みにくさ》に面相接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の浅猿《あさま》しさ!
 松太郎はお由の病苦を知らぬ。
『ウ、ウ、ウ。』
とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、再《また》ゴロリと横になつて、眼を瞑《つぶ》つて、呼吸《いき》を殺した。
 お由は二三度唸つて、立上つた気勢《けはひ》。下腹が疼《しび》れて、便気の塞逼《そくはく》に堪へぬのだ。眤《じつ》と松太郎の寝姿を見乍ら、大儀相に枕頭《まくら》を廻つて、下駄を穿いたが、その寝姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐愍《あはれみ》の情《こころ》を起させた。俺が居なくなつたら奈何《どう》して飯を食ふだらう? と思ふと、何がなしに理由のない憤怒《いかり》が心を突く。
『ええ此|嘘吐者《うそつき》、天理も糞も……』
 これだけを、お由は苦し気に怒鳴つた。そして裏口から出て行つた。
 渠は、ガバと跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に駆け込んで、布団を引出すより早く、其中に潜《もぐ》り込んだ。
 間もなくお由は帰つて来た。眠つてゐた筈の松太郎が其処に見えない。両手を腹に支《か》つて、顔を強く顰《しか》めて、お由は棒の様に突立つたが、出掛《でがけ》に言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒気が肉体の苦痛《くるしみ》と共に発した。
『畜生奴!』と先づ胴間声が突走つた。『畜生奴! 狐! 嘘吐者《うそつき》! 天理坊主! よく聴け、コレア、俺ア赤痢に取付かれたぞ。畜生奴! 嘘吐者! 畜生奴! ウン……』
 ドタリとお由が倒《のめ》つた音。
 寝床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした様に、ビクとも動かぬ。あらゆる手頼《たより》の綱が一度に切れて了つた様で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、独ぼつちの魂が石塊《いしころ》の如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑《つぶ》つた両眼からは、涙が滝の如く溢れた。滝の如くとは這※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる。抑へようともせぬ。噛りついた布団の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。…………
[#地から1字上げ](明治四十一年十二月四日脱稿)
[#地から1字上げ]〔生前未発表・明治四十一年十一月〜十二月稿〕



底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
   1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
底本の親本:「スバル 創刊号」
   1909(明治42)年1月1日発行
初出:「スバル 創刊号」
   1909(明治42)年1月1日発行
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月18日作成
青空文庫ファイル:
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