《こゆる》ぎもせぬ。右の頬片《ほつぺた》を板敷にベタリと付けて、其顔を炉に向けた。幽《かす》かな火光《あかり》が怖しくもチラチラとそれを照らした。
別の寒さが松太郎の体中に伝はつた。見よ、お由の顔! 歯を喰絞つて、眼を堅く閉ぢて、ピリピリと眼尻の筋肉《にく》が痙攣《ひきつ》けてゐる。髪は乱れたまま、衣服《きもの》も披《はだ》かつたまま……。
氷の様な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ。渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜悪《みにくさ》に面相接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の浅猿《あさま》しさ!
松太郎はお由の病苦を知らぬ。
『ウ、ウ、ウ。』
とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、再《また》ゴロリと横になつて、眼を瞑《つぶ》つて、呼吸《いき》を殺した。
お由は二三度唸つて、立上つた気勢《けはひ》。下腹が疼《しび》れて、便気の塞逼《そくはく》に堪へぬのだ。眤《じつ》と松太郎の寝姿を見乍ら、大儀相に枕頭《まくら》を廻つて、下駄を穿いたが、その寝姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐愍《あはれみ》の情《こころ》を起させた。俺が居なくなつたら奈何《
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