ぬ訳に行かなくなつた。其時思出したのは、五六年前――或は渠が生村《うまれむら》の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒《かうざんぶどうしゆ》の広告の中に、伝染病予防の効能があると書いてあつたのを読んだ事だ。渠は恁ういふ事を云出した。『天理様は葡萄酒がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病気なんかするものぢやないがな。』
流石に巡査の目を憚《はばか》つて、日が暮れるのを待つて御供水《おそなへみづ》を貰ひに来る嬶共《かかあども》は、有乎無乎《なけなし》の小袋を引敝《ひつぱた》いて葡萄酒を買つて来る様になつた。松太郎はそれを犠卓《にへづくゑ》に供へて、祈祷をし、御神楽を踊つて、その幾滴を勿体らしく御供水に割つて、持たして帰す。残つたのは自分が飲むのだ。お由の家の台所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も並んだ。
奈何《どう》したのか、鍛冶屋の音響《ひびき》も今夜は例《いつ》になく早く止んだ。高く流るる天の河の下に、村は死骸の様に黙してゐる。今し方、提灯が一つ、フラフラと人魂の様に、役場と覚しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。
お由の家の大炉には、チロリチロリと
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