赤痢
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凸凹《でこぼこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)塵|一片《ひとつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+(日/工)」、第4水準2−78−60]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ガサ/\と
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凸凹《でこぼこ》の石高路《いしだかみち》、その往還を右左から挾んだ低い茅葺屋根が、凡《およ》そ六七十もあらう、何《ど》の家も、何の家も、古びて、穢くて、壁が落ちて、柱が歪んで、隣々に倒《のめ》り合つて辛々《やうやう》支へてる様に見える。家の中には、生木の薪を焚く煙が、物の置所も分明《さだか》ならぬ程に燻《くすぶ》つて、それが、日一日、破風《はふ》から破風と誘ひ合つては、腐れた屋根に這つてゐる。両側の狭い浅い溝には、襤縷片《ぼろきれ》や葫蘿蔔《にんじん》の切端《きれつぱし》などがユラユラした※[#「さんずい+(日/工)」、第4水準2−78−60]泥《ひどろ》に沈んで、黝黒《どすぐろ》い水に毒茸の様な濁つた泡が、プクプク浮んで流れた。
駐在所の髯面の巡査、隣村から応援に来た最一人《もひとり》の背のヒヨロ高い巡査、三里許りの停車場所在地に開業してゐる古洋服の医師《いしや》、赤焦《あかちや》けた黒繻子の袋袴を穿いた役場の助役、消毒器具を携へた二人の使丁《こづかひ》、この人数《にんず》は、今日も亦家毎に強行診断を行《や》つて歩いた。空は、仰げば目も眩む程無際限に澄み切つて、塵|一片《ひとつ》飛ばぬ日和であるが、稀《たま》に室外《そと》を歩いてるものは、何《ど》れも何れも申合せた様に、心配気な、浮ばない顔色をして、跫音《あしおと》を偸《ぬす》んでる様だ。其家《そこ》にも、此家《ここ》にも、怖し気な面構《つらがまへ》をした農夫《ひやくしやう》や、アイヌ系統によくある、鼻の低い、眼の濁つた、青脹《あをぶく》れた女などが門口に出て、落着の無い不格好な腰付をして、往還の上下《かみしも》を眺めてゐるが、一人として長く立つてるものは無い。小供等さへ高い声も立てない。時偶《ときたま》、胸に錐でも刺された様な赤児《あかご》の悲鳴《なきごゑ》でも聞えると、隣近所では妙に顔を顰める。素知らぬ態《さま》をしてるのは、干からびた塩鱒《しほびき》の頭を引擦つて行く地種《ぢだね》の痩犬、百年も千年も眠つてゐた様な張合のない顔をして、日向《ひなた》で呟呻《あくび》をしてゐる真黒な猫、往還の中央《まんなか》で媾《つる》んでゐる鶏くらゐなもの。村中湿りかへつて、巡査の沓音と佩剣《はいけん》の響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を伝へた。
鼻を刺す石炭酸の臭気《にほひ》が、何処となく底冷《そこびえ》のする空気に混じて、家々の軒下には夥《おびただ》しく石灰が撒きかけてある。――赤痢病の襲来を蒙《かうむ》つた山間《やまなか》の荒村《あれむら》の、重い恐怖と心痛《そこびえ》に充ち満ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状態《ありさま》は、一度その境を実見したんで無ければ、迚《とて》も想像も及ぶまい。平常《ひごろ》から、住民の衣、食、住――その生活全体を根本《ねつ》から改めさせるか、でなくば、初発患者の出た時、時を移さず全村を焼いて了ふかするで無ければ、如何に力を尽したとて予防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同じ疫《やまひ》が猖獗《しやうけつ》を極めた時、所轄警察署の当時《とき》の署長が、大英断を以て全村の交通遮断を行つた事がある。お蔭で他村には伝播しなかつたが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。尤も、年々|何《ど》の村でも一人や二人、五人六人の患者の無い年はないが、巧に隠蔽して置いて※[#「特のへん+尨」、298−下−8]牛児《げんのしようこ》の煎薬でも服ませると、何時しか癒つて、格別伝染もしない。それが、万一医師にかゝつて隔離病舎に収容され、巡査が家毎に怒鳴つて歩くとなると、噂の拡《ひろが》ると共に疫が忽ち村中に流行して来る――と、実際村の人は思つてるので、疫其者よりも巡査の方が忌《きら》はれる。初発患者が発見《みつか》つてから、二月足らずの間《うち》に、隔離病舎は狭隘を告げて、更に一軒山蔭の孤家《ひとつや》を借り上げ、それも満員といふ形勢《すがた》で、総人口四百内外の中、初発以来の患者百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診断の結果で復《また》二名増えた。戸数の七割五分は何《ど》の家も患者を出し、或家では一家を挙げて隔離病舎に入つた。
秋も既《も》う末
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