しきを攘《はら》うて救けたまへ。」の御神楽《みかぐら》歌《うた》と代り、大和の国の総本部に参詣して来てからは、自ら思立つてか、唆かされてか、家屋敷|所有地《もちち》全体《すつかり》売払つて、工事費総額二千九百何十円といふ、巍然《ぎぜん》たる大会堂を、村の中央《まんなか》の小高い丘陵《おか》の上に建てた。神道天理教会○○支部といふのがそれで。
その為に、松太郎は両親と共に着のみ着の儘になつて、其会堂の中に布教師と共に住む事になつた。(役場の方は四ヶ月許りで罷《や》めて了つた。)最初《はじめ》、朝晩の礼拝に皆《みんな》と一緒になつて御神楽を踊らねばならなかつたのには、少からず弱つたもので、気羞しくて厭だと言つては甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程経つて、近所に火事のあつた時、人先に水桶を携《も》つて会堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天晴《あつぱれ》な殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳程経つて、脳貧血を起して死んだ。
両親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。他《ひと》から鄭重に悼辞《くやみ》を言はれると、奈何《どう》して俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その会堂に起臥《おきふし》して、天理教の教理、祭式作法、伝道の心得などを学んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、悪い事はカラ能《でき》ない性《たち》なのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平常《ふだん》可愛がつて使つたものだ。また渠《かれ》は、一体|甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》人を見ても羨むといふことのない。――羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮発心《はげみ》の出ない性《たち》で、従つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時偶《ときたま》、雑誌の口絵で縹緻《きりよう》の好い芸妓の写真を見たり、地方新聞で富家《かねもち》の若旦那の艶聞などを読んだりした時だけは、妙に恁《か》う危険な――実際危険な、例へば、密々《こつそり》とこの会堂や地面を自分の名儀に書変へて、裁判になつても敗けぬ様にして置いて、突然売飛ばして了はうとか、平常《ふだん》心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全然《まるで》理由《わけ》の無い反抗心を抱いたものだが、それも独寝の床に人間並《ひとなみ》の出来心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。
兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ会堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其処で三ヶ月修行して、「教師」の資格を得て帰ると、今度は、県下に各々区域を定《き》めて、それぞれ布教に派遣されたのだ。
さらでだに元気の無い、色沢《いろつや》の悪い顔を、土埃《ほこり》と汗に汚なくして、小い竹行李|二箇《ふたつ》を前後《まへうしろ》に肩に掛け、紺絣《こんがすり》の単衣《ひとへ》の裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る様な足調《あしどり》で、松太郎が初めて南の方からこの村に入つたのは、雲一つ無い暑熱《あつさ》盛りの、恰度八月の十日、赤い赤い日が徐々《そろそろ》西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齢こそ人並に喰つてはゐるが、生来《うまれつき》の気弱者、経験《おぼえ》のない一人旅に今朝から七里余の知らない路を辿つたので、心の膸《しん》までも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものの、腹に一物も無くなつては、「考へて見れば目的《めあて》の無い旅だ!」と言つた様な、朦乎《ぼんやり》した悲哀《かなしみ》が、粘々《ねばねば》した唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかかる痩犬を半分無意識に怕《こは》い顔をして睨み乍ら、脹《ふや》けた様な頭脳《あたま》を搾り、有らん限りの智慧と勇気を集中《あつ》めて、「兎も角も、宿を見付ける事《こつ》た。」と決心した。そして、口が自《おのづ》からポカンと開いたも心付かず、臆病らしい眼を怯々然《きよろきよろ》と両側の家に配つて、到頭、村も端《はづれ》近くなつた辺《あたり》で、三国屋《さんごくや》といふ木賃宿の招牌《かんばん》を見付けた時は、渠《かれ》には既《も》う、現世《このよ》に何の希望も無かつた。
翌朝目を覚ました時は、合宿を頼まれた二人――六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼付をした老爺《おやぢ》と其娘だといふ二十四五の、旅疲労《たびづかれ》の故《せゐ》か張合のない淋しい顔の、其癖何処か小意気に見える女。(何処から来て何処へ
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