なつた。隣村に停車場が出来てから通行《とほり》が絶えて、電信柱さへ何日しか取除《とりのぞ》かれたので。
その時代《ころ》は又、村に相応な旅籠屋《はたごや》も三四軒あり、俥も十輛近くあつた。荷馬車と駄馬は家毎の様に置かれ、畑仕事は女の内職の様に閑却されて、旅人|対手《あひて》の渡世だけに収入《みいり》も多く人気も立つてゐた。夏になれば氷屋の店も張られた。――それもこれも今は纔《わづ》かに、老人達《としよりたち》の追憶談《むかしばなし》に残つて、村は年毎に、宛然《さながら》藁火の消えてゆく様に衰へた。生業《なりはひ》は奪はれ、税金は高くなり、諸式は騰《あが》り、増えるのは小供許り。唯《たつた》一輛残つてゐた俥の持主は五年前に死んで曳く人なく、轅《かじ》の折れた其俥は、遂この頃まで其家《そこ》の裏井戸の側《わき》で見懸けられたものだ。旅籠屋であつた大きい二階建の、その二階の格子が、折れたり歪んだり、昼でも鼠が其処に遊んでゐる。今では三国屋といふ木賃が唯一軒。
松太郎は、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は知らぬ。血の気の薄い、張合の無い、気病《きやみ》の後の様な弛《たる》んだ顔に眩《まぶし》い午後の日を受けて、物珍らし相にこの村を瞰下《みおろ》してゐると、不図、生村《うまれむら》の父親《おやぢ》の建てた会堂の丘から、その村を見渡した時の心地が胸に浮んだ。
取留のない空想が一図に湧いた。愚さの故でもあらう、汗ばんだ、生き甲斐のない顔色《かほ》が少許色ばんで、鈍い眼も輝いて来た。渠《かれ》は、自己《おのれ》一人の力でこの村を教化し尽した勝利の暁の今迄遂ぞ夢にだに見なかつた大いなる歓喜《よろこび》を心に描き出した。
「会堂が那処《あそこ》に建つ!」と、屹《きつ》と西山の嶺《いただき》に瞳を据ゑる。
「然うだ、那処に建つ!」恁《か》う思つただけで、松太郎の目には、その、純白《まつしろ》な、絵に見る城の様な、数知れぬ窓のある、巍然《ぎぜん》たる大殿堂が鮮かに浮んで来た。その高い、高い天蓋《やね》の尖端《とんがり》、それに、朝日が最初の光を投げ、夕日が最後の光を懸ける……。
渠は又、近所の誰彼、見知越《みしりごし》の少年共を、自分が生村の会堂で育てられた如く、育てて、教へて……と考へて来て、周囲《あたり》に人無きを幸ひ、其等に対する時の厳《おごそ》かな態度をして見た。
『抑々《そもそも》天理教といふものはな――』
と、自分の教へられた支部長の声色を使つて、眼前の石塊《いしころ》を睨んだ。
『すべて、私念《わたくし》といふ陋劣《さもし》い心があればこそ、人間《ひと》は種々《いろいろ》の悪《あし》き企画《たくらみ》を起すものぢや。罪悪《あしき》の源は私念《わたくし》、私念あつての此世の乱れぢや。可《い》いかな? その陋劣《さもし》い心を人間《ひと》の胸から攘《はら》ひ浄めて、富めるも賤きも、真に四民平等の楽天地を作る。それが此教の第一の目的ぢや。解つたぞな?』
恁う言ひ乍ら、渠はその目を移して西山の巓《いただき》を見、また、凹地《くぼち》の底の村を瞰下した。古昔《いにしへ》の尊き使徒が異教人の国を望んだ時の心地だ。圧潰《おしつぶ》した様に二列《ふたならび》に列んだ茅葺の屋根、其処からは鶏の声が間を置いて聞えて来る。
習《そよ》との風も無い。最中過《さなかすぎ》の八月の日光《ひかげ》が躍るが如く溢れ渡つた。気が付くと、畑々には人影が見えぬ。恰度、盆の十四日であつた。
松太郎は、何がなしに生甲斐がある様な気がして、深く深く、杉の樹脂《やに》の香る空気を吸つた。が、霎時《しばらく》経つと眩《まぶし》い光に眼が疲れてか、気が少し、焦立つて来た。
『今に見ろ! 今に見ろ!』
這※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を出任せに口走つて見て、渠はヒヨクリと立上り、杉の根方を彼方此方《あちらこちら》、態《わざ》と興奮した様な足調《あしどり》で歩き出した。と、地面《じべた》に匐《のたく》つた太い木根に躓《つまづ》いて、其|機会《はずみ》にまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと断《き》れた。チヨツと舌鼓《したうち》して蹲踞《しやが》んだが、幻想《まぼろし》は迹《あと》もなし。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸々《やうやう》それをすげた。そしてトボトボと山を下つた。
穂の出初《でそ》めた粟畑がある。ガサ/\と葉が鳴つて、
『先生様ア!』
と、若々しい娘の声が、突然《いきなり》、調戯《からか》ふ様な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑《はた》と足を留めて、キヨロキヨロ周囲《あたり》を見巡した。誰も見えない。粟の穂がフイと飛んで来て、胸に当つた。
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