はハア、今の村長様の嬶様《かかあさま》でせえ、箪笥が唯《たつた》三竿《みさを》――、否《うんにや》全体《みんな》で三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなツす。』
 二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた小供連と、鍛冶屋の重兵衛、三太が二三人朋輩を伴れて来た。その若者が何彼《なにか》と冷評《ひやか》しかけるのを、眇目《めつかち》の重兵衛が大きい眼玉を剥《む》いて叱り付けた。そして、自分一人夜更まで残つた。
 三日目は、午頃来《ひるごろから》の雨、蚊が皆家の中に籠つた点燈頃《ひともしごろ》に、重兵衛一人、麦煎餅を五銭代許り買つて遣つて来た。大体の話は為《し》て了つたので、此夜は主に重兵衛の方から、種々の問を発した。それが、人間は死ねば奈何《どう》なるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出来ないとか、天理王の命《みこと》も魚籃観音の様に、仮に人間の形に現れて蒼生《ひと》を済度する事があるかとか、概して教理に関する問題を、鹿爪らしい顔をして訊くのであつたが、松太郎の煮切らぬ答弁にも多少得る所があつたかして、
『然うするとな、先生、(と、此時から松太郎を恁《か》う呼ぶ事にした、)俺にも余程《よつぽと》天理教の有難え事が解つて来た様だな。耶蘇は西洋、仏様は天竺、皆《みんな》渡来物《わたりもの》だが、天理様は日本で出来た神様だなツす?』
『左様さ。兎角自国のもんでないと悪いでな。加之《それに》何なのぢや、それ、国常立尊《くにとこたちのみこと》、国狭槌尊《くにのさづちのみこと》、豊斟渟尊《とよくむぬのみこと》、大苫辺尊《おほとまべのみこと》、面足尊《おもだるのみこと》、惶根尊《かしこねのみこと》、伊弉諾尊《いざなぎのみこと》、伊弉冊尊《いざなみのみこと》、それから大日霊尊《おほひるめのみこと》、月夜見尊《つきよみのみこと》、この十柱《とはしら》の神様はな、何れも皆立派な美徳を具へた神様達ぢやが、わが天理王の命と申すは、何と有難い事でな、この十柱の神様の美徳を悉皆《しつかい》具へて御座る。』
『成程。それで何かな、先生、お前様《めえさま》は一人でも此村に信者が出来ると、何処へも行かねえて言つたけが、真箇《ほんと》かな? それ聞かねえと意外《とんだ》ブマ見るだ。』
『真箇ともさ。』
『真箇かな?』
『真箇ともさ。』
『愈々真箇かな?』
『ハテ、奈何して嘘なもんかなア。』と言ひは言つたが、松太郎、余り諄《くど》く訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。
『先生、そンだらハア、』と、重兵衛は突然《いきなり》膝を乗出した。『俺《おら》が成つてやるだ。今夜から。』
『信者にか?』と、鈍い眼が俄かに輝く。
『然うせえ。外に何になるだア!』
『重兵衛さん、そら真箇かな?』と、松太郎は筒抜けた様な驚喜の声を放つた。三日目に信者が出来る、それは渠の全く予想しなかつた所、否、渠は何時、自分の伝道によつて信者が出来るといふ確信を持つた事があるか?
 この鍛冶屋の重兵衛といふのは、針の様な髯を顔一面にモヂヤモヂヤさした、それはそれは逞しい六尺近の大男で、左の眼が潰れた、『眇目鍛冶《めつこかぢ》』と小供等が呼ぶ。齢は今年五十二とやら、以前《もと》十里許り離れた某町に住つてゐたが、鉈、鎌、鉞《まさかり》などの荒道具が得意な代り、此人の鍛《う》つた包丁は刃が脆いといふ評判、結局は其土地を喰詰めて、五年前にこの村に移つた。他所者《たしよもの》といふが第一、加之《それに》、頑固《いつこく》で、片意地で、お世辞一つ言はぬ性《たち》なもんだから、兎角村人に親《したし》みが薄い。重兵衛それが平生《ひごろ》の遺恨で、些《ちよい》とした手紙位は手づから書けるを自慢に、益々頭が高くなつた。規定《きまり》以外の村の費目《いりめ》の割当などに、最先《まつさき》に苦情を言出すのは此人に限る。其処へ以て松太郎が来た。聴いて見ると間違つた理屈でもなし、村寺の酒飲和尚《さけのみおしやう》よりは神々の名も沢山に知つてゐる。天理様の有難味も了解《のみこ》んで了解《のみこ》めぬことが無ささうだ。好矣《よし》、俺《おら》が一番先に信者になつて、村の衆の鼻毛を抜いてやらうと、初めて松太郎の話を聴いた晩に寝床の中で度胸を決めて了つたのだ。尤も、重兵衛の遠縁の親戚が二軒、遙《ずつ》と隔つた処にゐて、既《とう》から天理教に帰依してるといふ事は、予《かね》て手紙で知つてもゐ、一昨年の暮弟の家に不幸のあつた時、その親戚からも人が来て重兵衛も改宗を勧められた事があつた。但し此事は松太郎に対して噎《おくび》にも出さなかつた。
 翌朝、松太郎は早速○○支部に宛てて手紙を出した。四五日経つて返書が来た。その返書は、松太郎が逸早《いちはや》く信者を得た事を祝して其伝道の前途を励まし、この村に寄留したい
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