行くのか知らないが、路銀の補助《たし》に売つて歩くといふ安筆を、松太郎も勧められて一本買つた。)――その二人は既《も》う発つて了つて、穢《きたな》い室《へや》の、補布《つぎ》だらけな五六の蚊帳《かや》の隅《すみつ》こに、脚を一本蚊帳の外に投出して、仰《あふの》けに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寝た女の寝息や寝返りの気勢《けはい》に酷く弱い頭脳を悩まされて、夜更まで寝付かれなかつた事も忘れて、慌てて枕の下の財布を取出して見た。変りが無い。すると又、突然《いきなり》褌《ふんどし》一点《ひとつ》で蚊帳の外に跳出《とびだ》したが、自分の荷物は寝る時の儘《まんま》で壁側にある。ホツと安心したが、猶念の為に内部《なか》を調べて見ると、矢張変りが無い。「フフヽヽ」と笑つて見た。
「さて、奈何《どう》為ようかな?」恁《か》う渠《かれ》は、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、蚤《のみ》に攻められて一面に紅らんだ横腹《よこつぱら》を自棄《やけ》に掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火傷《やけど》か何かで左手《ひだり》の指が皆内側に屈《まが》つた宿の嬶《かかあ》の待遇振《もてなしぶり》が、案外親切だつたもんだから、松太郎は理由《わけ》もなく此村が気に入つて、一つ此地《ここ》で伝道して見ようかと思つてゐたのだ。「さて、奈何為《どうし》ようかな。」恁《か》う何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が付かない。「奈何《どう》為よう。奈何為よう。」と、終ひには少し懊《ぢれ》つたくなつて来て、愈々以て決心が付かなくなつた。と言つて、発たうといふ気は微塵もないのだ。「兎も角も。」この男の考へ事は何時でも此処に落つる。「兎も角も、村の状態を見て来る事に為よう。」と決めて、朝飯が済むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。
 前日|通行《とほ》つた時は百二三十戸も有らうと思つたのが数へて見ると六十九戸しか無かつた。それが又|穢《きたな》い家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに気強くなつて来た。渠《かれ》には自信といふものが無い。自信は無くとも伝道は為なければならぬ。それには、可成《なるべく》狭い土地で、そして可成教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に帰つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出来るだけ勿体《もつたい》を付けて自分の計画を打ち明け
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